自己凝視とは自分を愛すること



自己を非難することは、自分を見ないことです。

この今朝思ったこと・・それは全くもって常識的ではないですし・・

未熟な私が、神聖なる肉体やマインドのことを話す資格など

まったくないのでありますが、お寺の見習い坊主の戯言と思って

聞いて下さい。



心臓はあなた(大叡智・大生命・大自然)のもの。

皮膚や爪や血液や内臓はあなた(至高の存在・サムシンググレート)のもの。

あなたが生きておられる。

この肉体はあなたのもの。



肉体はあなたが造り、あなたがお使いになり

あなたが生きておられる。



なのに私は「肉体は私のもの」「私が生きている」という揺るぎない常識

を持っている。

この揺るぎない常識は私の私達すべての中核を為しているのだが、

この常識とはいったいどこから生じているのだろうか?


それは、その「私という感覚」「自己実体感覚」とは私達が脳と一体化

したために、脳から生じているのではないか。

脳が条件付けられているのではないだろうか?



しかしわたしのそしてあなたの実感でもあり、何ら疑われることのないこの

「私は肉体であり、私の肉体だ」という当然の実感や常識にもかかわらず

快感や苦痛という身体感覚の知覚と認識・・・これは私達現在のパーソナリティー

が脳と肉体に繋がっているので一体化してしまっている肉体の持っている知覚なの

ではないのか?


しかし、それにも関わらず

肉体はあなた(大生命)のものである。

いのちはあなた(大生命)のものである。

DNAもあなた(大生命)のものである。・・・といえるのではないか。


肉体の生死はあなた(大生命)のもの。

あなた(大生命)が生死を為しておられる。・・・といえるのではないか





「私は肉体」「肉体は私のもの」という疑われることのない常識にも関わらず


呼吸し、心臓を動かし、神経を働かせているのは、私ではなくてあなた(大生命)。

脳を造り、維持し、動かし、思考させ、行為しているのは、私ではなくてあなた(大生命)。

あなた(大生命)が毎日、私(脳と結合している記憶)を眠らせ、そして目を醒まさせておられる。

あなた(大生命)が肉体を生まれさせ、そして死なせておられる。

あなた(大生命)は生死を超えて生きておられる。

あなた(大生命)が肉体を誕生させ、成長させ、老化させ、死なせておられる。





だから実感や人類のとっての疑われることのない「私は肉体」との常識とは異なり


個人と人類のすべての生死はあなた(大生命)のもの。

個人と人類のすべての五感も知覚も認識も記憶もあなた(大生命)のもの。

あなた(大生命)がすべての生物を含め万物一切として生きておられるのではないか?


あなた(大生命)だけが生きておられる。・・・と言うことなのかもしれない。









ここで多少複雑ではあるけれども・・・・私の考えているこの自己意識について

述べてみたい。私達が知覚している自己意識は勿論、未知なる魂の私の自己

意識ではなくて、以下の①と②の自己意識だと思われる


①たましいからの私・現在のパーソナリティー(コーザル体と繋がる未形成のサ

 イコノエティック体)とは、下記のその記憶(肉体は私だと錯覚している私)の反

 応(行為し、思考しているエレメンタル)を自分自身だと思い込んでいる私。その

 眠ってしまっているような私。魂とは繋がっているが殆ど目覚めていないので才

 能や障害や記憶と一体化してしまっている現在のパーソナリティーの自己意識。



②記憶・・【起こっている出来事(内部と外部)】にたいして反応している条件付

 けられている脳から生じている思考の記憶。そしてその記憶からの第2次的

 反応である感情、願望、衝動、思いや、理念や計画や目的などで構成され

 ている記憶質料(エレメンタル)であり、記憶の反応の自己意識。







 内側のそして外側の、良い事も、悪いことも出来事とは正確にカルマ

 に従って瞬時の狂いもなく起こっている。起こるべき出来事は必ず内部と

 外部に起こるのであり、記憶と一体化している私達は、その起こっている

 ことにツベコベ言わずに感謝して受け入れ、内部と外部に起こっている

 あらゆる出来事すべてに対して愛と感謝を捧げなければならないことだろう。




 愛を捧げると言うことは、判断無く分析や評価無く、そして非難や一体化や

 逃避することなく起こっている事をすべてを抱きしめること、すべてに感謝す

 ることでもあろう。あらゆる自分自身に感謝し、そして如何なる自分であっ

 ても自分をこころから愛することだろう。







 このことを再度言うと内側と外側に起こっていることとはカルマによって

 引き起こされており完全完璧であることだろう。

 ・・その起こっている事に条件付けられている脳が反応を起こすことだろう。

 その起こっている行為や出来事によって生じた脳からの「記憶」が今度は記憶から
 
 反応を起こしている。

 →記憶が私が行為している、私が選択し、私が思考している・・と錯覚している。

 →そして、さらにその記憶(散在意識にある)が脳の中枢を操作して選択し、

  思考し、行為している。これは非常に複雑であり、理解が難しい事柄であろう。


 私達である魂と繋がっている現在のパーソナリティーは眠った様な状態であり、

 私達のサイコノエティック体は今のところは未形成で超感覚を持っていないと言

 われているので。

 →私達はその記憶の思考と行為に自己同一化して、記憶が思うように思ってしまい、

   記憶が行うように行ってしまい、カルマを生じてしまっていると。


 
   このコーザル体を経由して魂と繋がっている未熟で未覚醒な私達のサイ

  コノエティック体の再形成とは、飽くなき自分への凝視即ち自分に対

  する愛と感謝であり、それが死と復活、洗礼と再生へと繋がっていくのであろう。


  記憶と混濁し一体化している現在のパーソナリティーにとってはサイコノエテ

  ィック体の再形成とは「自分を愛すること」「自分に耳を傾けること」「自分に感

  謝すること」でもあり、それは記憶と混濁している現在のパーソナリティーに

  とっては愛と再生、即ち洗礼と再生でもあり、死(十字架)と復活でもある

  と教えられているのではないだろうか。

 






ここから先は私の想像なのであるけれども

ゲーム上でプログラミングされた登場人物が、記憶を重ねて賢くなり、自己

意識と自由意志を持って考え、感じ、行為しているのと全く同じように、肉体に

誕生した私達現在のパーソナリティーはこのプログラムされた登場人物と

完全に一体化してしまったのであろう。

私達は肉体と結合し、プログラミングされている脳と結合した結果

脳によって生み出された記憶がするように為し、記憶が思考するように

思考することでカルマの結果に縛られてしまっているのではないか?



私達はこの「記憶の自己」ではなく、肉体に入って脳と結合した私なのだろう。

「魂と繋がっている私」、「コーザル体を介して魂と繋がっている

サイコノエティック体の私」なのだと教えられている。




ただ悲しいかな私達現在のパーソナリティーは未発達で未熟であり

私達のサイコノエティック体の目は開かれず、閉じられたまま眠って

しまっているので脳からの知覚や記憶と完全に一体化しているのだと。

本来の知覚も認識もないのだ。この知覚や認識は記憶のものだと。




私達である現在のパーソナリティーのサイコノエティック体は未だ未形成のまま

であるので目は開かれず、従って自分を見ることも自分がどういう状態であるのか

も知ることができないのだと。

思考やその思索や信仰や教えの記憶によっては「私自身」は知ることはないの

であります。





記憶や理論や情報や信仰や教えや哲学によっては「私自身」は知られることは

ないのでありましょう。(但し全くの誤解なのに自分は私を知っていると思い込むこと

ならばできます)。真理の言葉を知ることは記憶であり、私達の実存ではないからです。




いくら言葉や知識で真理を知っていても意地悪で最悪レベルのサイコノエティック体

であることがあるからです。それは誰でありましょうか?ほかならぬこの私なのです。

だからこの久保栄治は自己の実存状態を目の前に投射して、その目の前の相手と

して自分を見ているのです。私が非難している相手とは実は自分だと気がつかな

いのです。


だからこそ

自分に感謝して、自分を愛すること即ち逃避や判断無しの自己凝視(自分に耳を

傾けること)だけが現在のパーソナリティーのサイコノエティック体の再形成に

役立つのではないでしょうか。