意識の座



意識の座に来て、去って行くのは記憶の反応。


しかし


意識の座は、記憶の反応ではない。


記憶の反応は意識の座ではない。



意識の座が在るので、即ち意識の座が在るからこそ、

思考や知覚という記憶の反応が去来できるのである。



記憶の反応・恐怖・希望と絶望(見る・聞く・考える・感じる・話す)は

意識の座に現れては去って行くが、その中身に

関わらず、またその如何に因らず、意識の座が影響されることはないだろう。



意識の座に

現れることは必ず現れるだろうし

起こる事は必ず起こるだろう。

起こらないことは必ず起こらないだろう。

良い事も良くないことも、起こる事は起こるだろう。



しかしいずれにせよ

それら意識の座に出現している「思考と感情」に対して

即ち恐怖に対して、自分自身に対して

感謝と愛を捧げることが

ワークなのであろう。

自分が自分に感謝し、自分が自分に愛を捧げることが

ワークなのであろう。



私自身・自分に対して愛と感謝を捧げることが一番大切。



「ありがとうございます」「愛しています」の言葉を唱え続ける

ことがワークなのである。





そして逆説的ではあるけれども

この「ありがとうございます」「愛しています」のワークを

し続けることによって、徐々に「意識の座」が姿を現してくるのである。


この「意識の座」が姿を現すことによって、意識の座がクリーニング

されて綺麗になっていくのであろう。