プログラム



今日はヒューレン博士の言っているプログラムについて思索しました。


AIやPCは何によって動いているのでありましょうか?

それはウインドウズなどの根本プログラムによってでありましょう。



私達、人類人間はPCと同様にプログラムされた「条件付けられている脳」と

潜在意識にある記憶によって動かされている・・といわれています。

私達人類は条件付けられているのですと。




私達たましいと繋がっている表面意識は未熟で未形成なので、いまのところは

このプログラムによって完全に支配されており、プログラムが実行し為すままに

感じ、見て、話し、願い、思い、行っているといわれております。



私達は潜在意識にあるこのプログラムによって動かされ、プログラム

に従って知覚し認識しているのですと。そしてそのプログラムが記憶を形成

しているのだと。その記憶とは過去の多くの生涯での苦しい悲しい恐怖に満ちた

人生の記憶であることでありましょう。その記憶が誕生日を祝い、肉体の死を

自分が死ぬと思って苦しむのです。そして死後もその記憶は生き残ってワサナと

なるのでしょう。そしてそのワサナはたましいと繋がっている表面意識が新たな

肉体を得たときに、たましいの私と一緒にその肉体に繋がると言われております。

私達たましいと繋がっている表面意識は、この記憶が思うように思い、記憶が

行うように行うことによってカルマを作り出してしまうのでありましょう。



そのプログラムによって私達人類の社会、国家そして文明は築かされている

というのです。



国家も社会も教育も文化も科学も人類の営みのすべてがプログラムに

従って完全に支配され、動かされていると。それは当然この現在の私もですが。


新聞もテレビもPCもスマホも常にこのプログラムが発信され続けていると。


では、私達の潜在意識にあって私達の知覚と認識をコントロールしている

プログラム、私達を支配しているそのプログラムとは何でありましょうか?




そのプログラムのことをヒューレン博士は「記憶」といい、ほかの方々は

「条件付け」と言い、またほかの方は「私という観念」「根本無明」「神聖なる

マーヤ」などと言っておられます。



地球人である私達が同一化してしまっているそのプログラムとはつまるところ

根本では恐怖であるのではないでしょうか。


その根本プログラムとは時間と空間の分離、自他の分離、主体と客体の分離、

であり、絶望と恐怖が根本であり、憎悪し、暴力し、プライドに溢れ、相手を常に

利用し、自己関心で、高慢である。即ちそれが個々人の記憶=自我であると。

そしてこの悲しい自我の救済こそが私達の勤めであるとヒューレン博士は言います。



その自我は全人類で同一の自我なのに「自分は他人とは違う」と錯覚している

といいます。それは人類で同一の自我がこの個別の私の自我でもあるというこ

とでありましょう。



自我とは人類で同一なのに、その自我は「私は私だ」「私は人類ではない」と、そ

の様に肉体と同一化したので確信しているのです。・・・これが人類の常識なのです。



その心理的、日常的側面は、常に自と他を評価し、判断し、思考し、感情し、行

動を起こし、思い、考え、信じ、話し、聞き、感じて、恐怖に怯えております。



記憶・プログラムは他者と私、万物と私を分離して知覚し、時間を過去と現在と未

来に分割し、空間を此処と彼処に分け、肉体を自分のものだと錯覚しているので

、肉体の知覚を自分自身の感覚だと錯覚しているからです。・・・というのはこの

自我である私とはこの「根本無知」から生まれた記憶であるようにおもえます。


・・私達はまだ未熟なので高次の思考と感情とその知覚がないので、それを

直に知ることができませんが・・・・。もしこのことを本当に見ているならば限りない

喜こびが溢れ、脳の眠りを観察している意識の覚醒があることでありましょう。


またそのプログラムは「自分は他者ではない」、「内部と外部は異なっている」、

「肉体は私のもの」「私は肉体だ」と思っていることでありましょう。



私達である表面意識はその記憶という、潜在意識にあるプログラムと一体化して

いるので、常に至ろう、成ろう、実現しようと努力してしまっているのであります。


そのプログラムとは時間と空間の認識形式そのものであるといえましょうか。


そしてこのプログラムから生じた記憶はたましいからの私と一緒に個々の肉体に

入り、肉体と結合したので「自分は個人であって他者ではない」、「自分は相手では

ない」と自分も他者も憎み、自己関心に苦しんでいることであろうとおもいます。



そのプログラムから生じた記憶=自我は全人類で同じ自我であるのに「自分は

個人的自我」だと錯覚していますが、ほかの人の自我も私と同じ共通の自我で

あることに気がつきません。


このプログラムの記憶はそれ自身が「自らを知らない無知」であり、恐怖であり、絶

望であり、動機を持ち、期待を持っており、常に「なる」「あろう」としていることであり

ましょうか。



このプログラムの記憶が理念、計画、目標設定、動機を持ち、判断評価し、思考と感

情を使って自らを内部と外部に投影して自らを他者・対象として知覚していることでしょう。



そして期待を抱き、願いを持ち、利用し、プライドを持ち、満足し、自他を憎悪し、競争し

、恐れ、悩み、苦しみ、考え、計画し、戦い、戦争している。


・・・ということなのでありましょう。

・・・このことを見ている私こそが、その観察し見られている私なのですと。




この記憶・プログラムは決して自らを許し、悔悟し、感謝し、愛することをしないことで

ありましょう。見ている私は見られている私であることを知覚できないのです。


だからこそ

高次の教えでは内奥の至高なる実在に対してプログラムからの解放をお願いしなさいと

いうのではないでしょうか。


そのプログラム記憶に対して「御免なさい」「許して下さい」「愛しています」「ありがとう

ございます」と唱えなさいと言うのであります。記憶に感謝し、記憶に愛を与えなさいと。





すべての私を許し、あなたを許し、如何なる私をも愛し、あなたを愛し、私に感謝し、万物

のあなたに感謝しなさいと教えておられます。