愛とは何か?





愛とは何だろうか?

「愛が神である」、と教えられている。



では

神とは何であろうか?

神とは主体と客体が一つであることであろう。





では

主体と客体が一つであるとは何であろうか?

それは

「見るものは見られるものである」

「観察者は観察されるものである」

との究極の理解であり、目があるときであろう。




このことの実際の領解、

このことの頭でなく本当の実際の理解の中に

愛が顕現している。


・・・ということだろう。




それは

恐怖を見ているのは恐怖なのである。との理解があるとき、

「恐怖が恐怖を見ているのである」との領解があるとき、

「記憶が記憶を見ている」との実際の理解があるとき、

そこに愛は顕現している。

と言うことだろう。




私が恐怖を見ているのではなくて、恐怖を見ている私が

恐怖であるとき、「見るものは見られるものである」とき。

あなたがわたしであるとき。


私が対象を見ているのではなくて、対象が私であるとき

「対象を観察している主体が対象そのものである」とき

愛がそこにそっと姿を現していると教えられている。




黒住宗忠の「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を写してや見ん」

との教えの本当の理解があるとき、そこに神が顕現している。

ということである。



「見るものは見られるものである」とき、そこに愛があるのだ。



そしてそのためには


一切万物を心から愛し、一切万物すべてに感謝しなければなら

ないことだろう。



内と外のあらゆる起こっている事、そして「起こっている事に対し

て反応している記憶」に対して、感謝することである。


「愛しています」「ありがとうございます」との実践ワークが決め手

なのである。