虚偽を虚偽とみる



昨日私が書いた日記

(※起こっている事に誰が反応しているのか?反応しているのは記憶である。

誰が反応しているのか?記憶が反応しているのである。)とは真理であるが

真理をこの私が語るとそれは真理の誤解となってしまうのである。


何故か?


何故同じ真理の言葉であるのにそれを私が書いたら真理ではなく真理の

誤解になってしまうのか?


それはたとえ真理であっても記憶から出ているものは記憶であるからである。

真理とは意見や思想ではなくて事実であり、哲学や宗教の違いを超えている。

私が体験して語るのは記憶の私の意見や思考でありそれは理解ではなくて

思考なのである、昨日の日記は思考という記憶が書いたのでありそれは真理

ではない。単なる考えであり、思想なのである。真理は意見や考えや信仰や

哲学や思想ではない。それは、記憶にとっては未知なる生命なのである。




世の中によく見られる「覚醒体験」であるけれども

「私はいなかった!体験者はいない!」という真理がそこにもし顕現しているなら

、そこには理解という「目」が実際に誕生していることだろう。

そして、多分それは周囲にも「愛」の多大なる影響を与えざるを得ないであろう。

その目は「周りに愛に値しないものを見る事はない」のであると思われる。

感謝と愛と慶びがきっと在る事だろう。

それがなければ、それは記憶の巧妙な罠であり・潜在意識の記憶が起こし

ている体験であることだろう。



真理は真理が話し、書けば、それは嘘ではなくて真理であるが、真理であっても

記憶が真理を話し、書けば、それは真理ではなくて嘘(記憶)となってしまう。

真理の誤解、真理の曲解となってしまう。

そこには理解がなく、従って愛もなく、自他の分離という毒があるからである。

具体的に言えば、そこには思考を超えた第三の目が覚醒していないのである。



それは熟睡中も記憶を観照している目、「気づき」「愛の目」がないからである。


同じ真理の言葉であっても真理が話せば真理となり、記憶が話せば記憶となっ

てしまうのである。



もし真理を話しているのが記憶ではなくて「真理の理解」であるならばそこに沈黙

があることだろう。そしてそこには「すべてに神を見る目」が顕現していることだろう。


そのときそこに「私」の覚醒があり、決して眠ることのない、愛の目が日中でも、熟睡

してる眠っているときにも、その愛の目が「記憶(私)が熟睡している」状態を見ている

ことだろう。


この「第三の目」が覚醒している状態(肉体や脳が寝ているときも、見ている愛の目が

覚醒している)で真理を語ることは、それは真理であるが、同じ言葉を記憶が話すと、

それは意見や考え・思想であり、それは真理ではなくて嘘を話していることとなる。

語られる言葉とは裏腹にその状態は自分と周囲に毒をまき散らすことだろう。

それを語っているものは私達が自己同一化してしまっている潜在意識にある記憶で

あることだろう。それは脳が眠るときに一緒に眠ってしまう記憶なのである。



そしてその記憶が語る真理の言葉は真理の香りを失い、その記憶(エレメンタル等)

が引き起こすであろう「覚醒体験」は真理の覚醒から私達を遠ざけてしまうことだろう。



もしそれが真理の覚醒であるならば、その覚醒した意識は脳が眠っているときにも目

覚めているからである。その目覚めている意識とは「脳と一体化してしまっている記憶」

ではないことだろう。


もし開眼していれば、そこには愛があり、愛である「熟睡中も思考なく観照している」観

照者の目には万物すべてに、すべての人の中に神を見ているからであろう。


もしその目が覚醒した目なのであるならば必ずや全てに神を見ていることだろう。