純粋理性批判
今日は理性や知性という「記憶の反応である思考」では、決してホ・オポノポノ達のいう
真実の言葉は分かることもなく、理解もできないし実践することもできないということを考え
てみたい。
IQ180の頭脳の天才や超知能のコンピュータにはヒューレン博士の言葉は全く理解出
来ないことだろう。なぜならば理性や知性とは、「私という知覚し認識する自己・主体」と、
対象として知覚し認識される「あなた・それという客体」の分離を大前提としており、ヒュー
レン博士たちが教え伝えようとしている「真理・現実」とは、その主体と客体の分離がない
のであり、従って主体と客体の分離を前提に基づいている知性や理性という頭の天才達には
ヒューレン博士たちが話す「真理」「汝・それ」を理解することが全くできないのである。
この博士達の意識状態、この目の状態とは具体的には「”キリストの汝の敵を愛しなさい”を
実践している状態」であり、自分を殺そうとして襲いかかる魔物達を、自分の潜在意識から
出現している自分自身の記憶だと看破し、その自分の記憶である殺人悪魔に対して「許して
ください、愛しているよ、ありがとうございます」と抱きしめている・・という事である。
これは純粋理性では考えることも想像すらできない意識状態である・・・これが非分離の
意識状態の方々の見ている世界であり、「私はあなたである」という人の態度なのである。
ラーマクリシュナの「すべての人の中に神を見ている」意識状態なのである。
(記憶とはエレメンタルであり、そのエレメンタルが私の中に有って「私だ」と詐称し、目の
前の殺人鬼として出現している)
もっと砕けたわかりやすい言葉で表現すれば、知性や理性という頭ではいくら大天才でも
肉体やあらゆる生き物を生かしあらしめている「いのち」は分からないということである。
「いのちそのもの」には記憶の反応である理性や知性では決して近づくことができないの
である。
思考即ち記憶の反応である純粋理性とは私という観念が持っている「自他の分離」「自分
と世界の分離」「内部と外部の分割」「善と悪の区別」「敵や味方という区別」「所有とい
う錯覚」「時間と空間の分離感覚」等を引き起こしているその「根本的な無知」から発生して
いるので、
それらである頭脳からの、記憶からの理性や知性によっては透明なる意識からもたらさ
れている真理の言葉を理解することができないし、その言葉を「実践すること」は知性や
理性といった記憶にはさらに不可能であると言うことである。
だからホ・オポノポノでは記憶をクリニーングすることに全力を傾注させるのである。
これは逆に言えば理性や知性で知覚し認識できる「現実」というものは、常に「自他の分離」「私
と世界の分離」「善と悪」「敵と味方」という「真理から見れば虚偽」の知覚認識の範疇内にある
と言うことでもある。この私もそうであるが自他の分離は虚偽であり、虚偽を現実だと知覚認
識しているのである。
ヒューレン博士が「ヒーリングとは患者である他人を癒やすのではなく自分を癒やすのです」、
「テロの責任は私にあります」などと聞いても知性や理性では全く何のことやら分からないのです。
覚者からもたらされる真理の言葉は、理性や知性では理解できず、直覚とか「思考なき気づき」とか
インスピレーションとか呼ばれている純粋意識によってしか理解出来ません。理性や知性にとって
は常に謎であり、誤解してしまうのであって、キリストの「汝の敵を愛せよ」などは思考や理性しか
知らないキリスト教の信者にとっては決して理解されず、実践されなかったことは歴史がすでに
証明していることであります。
人類の進化の過程を先に進んでいるホ・オポノポノのヒューレン博士たちのいう「ありがとうござ
います、愛しています」と唱えることとは、クリシュナムルティーのいう「思考なく見なさい」というこ
の透明なる意識状態のことを別の角度から実践しているのだと思われます。なぜなら「ありがとう
ございます、愛しています」の中には、思考や感情から発生している期待や目的や動機がない
からです。
この「ありがとうございます」と無心で唱えることのなかに「思考なく見る」ことの萌芽が、すなわ
ち「思考が沈黙している純粋意識状態」が近づき訪れはじめているからだと思われます。
「御免なさい、許して下さいありがとうございます、愛しています」と唱えることは、それは神、
道の「払いたまえ、清めたまえ、幸はえたまえ」と同じように、記憶を清めること、意識の中
から記憶という理性や知性を清めることが発動し始めている、ということを指しているの
ではないかと思います。
ただただ「ありがとうございます」「愛しています」と常に無心で唱えることは非常に重要なことありましょう。
この神道の「払い給え、清め給え、幸はえ給え」と同じように「ありがとうございます・愛しています・ご
めんなさい、許してください」とホ・オポノポノでは無心で唱えなさいといっているのであります。
「ありがとうございますの意味を考えたり、心を込めて言うのではなく、ただただありがとうございま
すと唱えなさい」とホ・オポノポノでは言います。これは純粋理性批判なのでありましょう。ありがと
うございますと言葉を唱える際に、そこでは知性や理性を用いて思ったり、考えたりするのではな
くて「純粋にただただ言葉を唱える事」を通じて意識に接近しようとする廻向行なのであると思います。
よくヒューレン博士がありがとうございますの言葉の意味を詮索しないでただ唱えなさいと言っている
のはその考え、感情を込めて話すこと自体、即ち結果や報酬を考えること自体が、それは思考とい
う記憶であり、その思考という知性や理性は意識からではなくて、記憶である「私という観念」から生じて
いるからであると。
それ故に、ヒューレン博士達はその記憶の反応である期待を「ありがとうございます」という言葉で
消去し、クリーニングしていただけるように「内なる実在」に祈りなさいというのであります。
良い事だ、悪い事だとか、つべこべ言わずに起こるすべての事を・・良いことも、良くないことも
すべてを心からありがとうございますと感謝して受け入れなさいといわれるのです。
潜在意識から記憶をクリーニングするためには、言葉を使います。それは私を詐称する記憶・「地球
の集合無意識」に対しては、「棘を抜くには棘を使い」「間違っている思考に対しては正しい思考・正し
い言葉を使う」「毒を制するには毒をもって制する」という方法が効果があると言うことであると思わ
れます。
記憶自身を浄化するには言葉を用いるのであると、それは「南無阿弥陀仏」と唱え、「払い給え、清
め給え」と唱え、「御心のなるが如くにあらしめ給え」と唱え、「ありがとうございます、愛しています」と
思念を交えず、思考の反応である期待や願望や動機や目的を伴わずにただただ言葉を唱えること
だと教えられております。
私達、人類とは「思考を超えている意識」の段階にあるのではなく記憶・思考の範疇であり純粋理性しか
知らず、また理性や知性しか使用できないので、その理性や知性の目でもって世界と自分および他者と
自分を分離して見ています。分離して見ているのは純粋意識であるたましいではなくて記憶なのであると。
私達は記憶という思考の中に閉じ込められており、常に、そして必ず自他を分離し、私はあなたでは
ないと錯覚し、私は世界ではない、私は個人であり全人類ではない、私とはあなたとは異なる個人である、
内部は外部と異なっている、とそのように見ています。それが知性であり理性であり記憶の反応であると。
私達は目が覚めていないので思考が生み出す「自己」「自我」という記憶の範疇から脱することができない。
ヒューレン博士の言う「地球の裏側の人が行為した責任は私にあります」「すべての過去からの人類の
行った責任は私にあります」、「人を癒やすのではなく、自分の潜在意識の記憶をクリーニングする
のです」や黒住宗忠の言う「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を移してや見ん」とは知性や理性では
全く理解することができないのです。理解が訪れるように内なる神に祈りなさいと言われます。
それは私達が目覚めていないので、私達を覆っている記憶が「私はホ・オポノポノの言うことは
理解できないよ」とそのように言ったり、「それは簡単だよ」といってホ・オポノポノを記憶が自分の
欲望のままに願望成就の手段に利用したりするのです。
それは知性や理性とは記憶の反応、思考の反応であり、思考とは私という観念という無知であるので
純粋理性や知性ではホ・オポノポノやヒューレン博士たちの言葉を理解できないのです。
だからこそ私達は「棘を抜くには棘を使用する」ために、言葉を使用して、真実を唱えるのである。
それが「ありがとうございます、愛しています、ごめんなさい、許してください」であり、真実に向かう
ために言葉を唱えること、即ち思考を超えて意識に向かう思考のワークであり、祈りであり、修行
であり、廻向行であり、クリシュナムルティーの言う「思考なく見る」に至るための方法でもあるので
あると私は思っています。
この地球上には「自他の分離」=私という観念からの思考・記憶から自由になるための道や方法
はたくさんあることでしょうが、
ホ・オポノポノのありがとうございます、愛していますと「敵(即ち記憶自身」に向かって唱えることは
それは無知という自他の分離に基づいている思考、純粋理性にとっては理解不能なワークであり、
ますけれど、しかしながらも実践可能なワークなのであります。
だからこそ私達は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、理解出来なくても言葉を用い
意識を用いて正しく「ありがとうございます・愛しています」と潜在意識の中にある記憶に対して
唱えるのです。
それはまた、「思考なく見る」「見るものは見られるものである」に通じている方法の一つでもある
からであると思われます。