自我を見ているのは誰か
ふとした状況の中で、自分の自我がはっきりと知覚され、自分でも
驚かれたことがこの人生ではたくさんあったのではないでしょうか。
自分の知らなかった自分の自我がひょっこりと顔を出して、驚かれた
ことは、人生のいろんな場面の中でたくさんあったことでありましょう。
そしてその自我は精神世界の本を読んで”「すべては起こっている」、
「自分は観照者であり、起こっていることは映像であり記憶に過ぎない」”
などと聖者のたましいの目による実相の知覚を、この目が覚めていな
い段階の私達が全く理解していないのにそれをそのまま受け取って
自分を騙し続けています・・・それを語っているのは記憶自身であり
覚醒していないのに、自分は潜在意識にある記憶の反応なのに、
記憶が「私は観照しているたましいの私」「私は真我だ」などと自分を偽り
自己を騙し、自我が好き勝手を繰り返し、自我の毒を周囲にまき散ら
しているのではないでしょうか。
なぜならそれを騙っているものは、自らを自他に分裂し、自らを世界と分
断し、自らを内部と外部に分割して、全体を全体として見ていない「無明」
潜在意識にある記憶(無知)だからですと。口ではすべては起こっていると
喋っていても、自分の現状の姿は全くその反対に自分は機械であることを
全く理解していないのです。
自己観察をしていると自分の心の中の自我(記憶)がちょくちょく顔
を出して、知覚認識される事でありましょう。そして、私達はその起こ
っている記憶の反応に対して一体化してしまうことにより振り回され
悩み苦しみます。
では、その自我を観察し知覚認識している私とは誰なのでありましょ
うか?
それは記憶ではないでしょうか?ヒューレン博士はその求めたり、期
待したり、質問したりしている記憶に対して「愛しているよ」と唱えてクリ
ーニングしなさい。と教えています。
この自我を知覚認識し観察して、自我に驚き、自己を非難していたり、
自己から逃げたり、自己と同一化している、この私こそ自我である記憶
である・・・・・と覚者は言っております。この自我に愛を注ぎなさいと。
私達はそのような記憶からの想念や欲望が起こると、通常はその
想念や欲望を自分自身だと錯覚してしまいます。そしてそれと戦ったり
超克しようとしたりしますが決してそれに対して愛を注ごうとはしません。
ですのでその想念や欲望を起こしている記憶を観察している私とは誰
なのでありましょうか?
記憶・自我が自分自身のことを分離分割して見る私と、見られている
私に分けているのですと。「見るものは見られるものである」のですと。
そして、自我は自分を分割して、自我を自分の対象として自らを憎み
自らを恐れ、自らを分析し、自らを非難してしまっているのであると。
また必ずや自我は自分を他者として投影して知覚認識し、自分である
相手・他者を非難し、攻撃し、または逃避しているのですと。
同じように自我は自我自身を見る私とみられている私に分割しているので
自我自身を対象として見ており、自分を非難し、自分を評価し、自分を憎み、
自分を処罰しようとします。自我自身は自分を知覚者、
認識者であると思い込み「私とは自我とは別であり、自我の観察者だ」と、
「私は観照者であり真我なのである」と偽り、生き延びようとしているの
ではないでしょうか。
覚者は、見る私と見られる私に、私と他者に、内部世界と外部世界に、私
と世界に分離し、相手にその自分=恐怖=記憶を見て知覚認識している
私こそが潜在意識にいる記憶・自我であり、その記憶は人類で共通の記
憶であるというのです。
この「自我を見ている私は自我である」というこの覚了・見地は愛に最も
近いのではないでしょうか?
なぜならば
愛とは「愛する者が、愛する相手に永遠に吸収されて、見る
ものと見られるものが一体となること」だと教えられているからです。
愛が顕れる為にはこの「見るものは見られるものである」という実際の
知覚が必要なのでありましょう。
私が恐怖を見ているのではなく、恐怖が私である・・というたましいの
直接の知覚体験が愛が顕現するためには必要であるということであ
りましょうか。なぜならその恐怖とは分離であり、恐怖を見ている私とは
恐怖であるとの知覚こそ非分離の状態であるからです。
ここでホ・オポノポノのように自我・恐怖というものを「記憶」と置き換
えても良いと思います。
内と外を見ているものは記憶なのでありましょう。記憶が記憶を知覚し
認識し見ているのでありましょう。話しているものも、聞いているものも、
そして目標を立てて、一生懸命生きているものも記憶なのでありましょう。
ベッドから目を覚まして歯を磨いて食事をして、思索し、TVやPCやス
マホを見ているものとは記憶なのであリましょう。
色々と計画し、目標を立てて、努力して、見て、知覚し、思考し、質問し
行動しているのは記憶なのですとヒューレン博士は言っています。
それは肉体や思考や願望や感情を私だと自分を確信している「私とい
う観念」の記憶なのですと。
この記憶が自らを自他に分割し、自らを内部と外部に分離させ、自ら
を観察するものと観察されるものに分離しているのだと。
そしてこの記憶を記憶であると正しく見ている状態、すなわち「見るもの
は見られるものである」と頭ではなくて体全体で知覚し、実際にこのこと
を体験している状態は、思考が働いていない状態であり、それはたま
しいからの表面意識の状態であり、その透明になった表面意識に内奥
のたましいからの光が透過され、輝き出すのであると。
それのために記憶に対して唱える言葉「ありがとうございます」「愛してい
ます」であるとホ・オポノポノでは言っているのではありませんか。
この記憶を記憶として正しく見ていることは、ホ・オポノポノでいう記憶に
対してありがとうございます、愛しているよと唱えることであり、記憶から
の解放のために必要な「一つの方法」なのでありましょう。
その記憶にありがとうございます、愛していますと唱えること・・それは
「虚偽を虚偽として見ている」たましいの私と繋がる方法の一つであり、
非分離という愛の状態にもっと近いのではありませんか?
(ここで言う虚偽とは自他が分離していると思うことなどです)
それ故、その愛しているよと唱えること、すなわち「汝の敵を愛している」
ことを実践するなか、「私が恐怖を見ているのではなく、見ている私が恐
怖である」という非分離の状態が訪れ、その中に真実(愛)が現れるの
であると教えられております。
反応を起こしている記憶(思考)に対して愛を注ぐことが変容には必須
なのでありましょう。