誰がありがとうございますと唱えているのでしょうか
ホ・オポノポノでは愛しています、ありがとうございますと唱える
のですが
それはいったい誰が唱えているのでしょうか?
ありがとうございますと唱えているのはどの私なのでありましょうか?
・・・・・
思うに
その誰が唱えているのかと?どの私が唱えているのかと?質問している
のは誰でしょうか?そのことを思考しているのは誰でしょうか?
それは記憶がその様に質問しているのでありましょう。
それはどの私なのかと思っている記憶が自分を分割し高次と低次に分け
ているのではないか?
と思います。
ですので、質問しているのは記憶である思考でありましょう。
記憶が質問しているのです。記憶が思考しているのです。
記憶が自らを高次と低次に分割し自己を分離しているのではありませんか。
そして記憶が「唱えているのはどの私なのか?」と質問しているのです。
なぜなら記憶は無知であり、自身を知らず、「私」を知らないからであると。
なぜなら記憶は分離し分割し自分自身を自他に分割し、自分を高次と低次に
分割し、他人を自分ではないと、自分を自他に分割し錯覚しているからですと。
記憶が「悪いのはあいつだ」と自分を相手に投影して思っているのではありま
せんか。
記憶がDNAにしたがって起こっている事に対して、起こっている出来事に対して
・・それが・・内部であっても、外部にあってもですが・・・即座に反応し、応答し、
考え、行動しているのではないでしょうか。その記憶こそ根本無明とか根本自
我とか無知とか呼ばれているものなのではないでしょうか?
それなのに精神世界を学んでいる私達は、自分自身である私(たましいと繋がっ
ている私)と、この起こっている内部と外部の出来事に対して反応して行為や思考
そして会話や感覚・知覚認識を繰り返し起こしている潜在意識にある記憶とを混
同してしまっています。
すなわち、記憶が(カルマに従って起こっている出来事や、DNAから起こってい
る欲望や思考や恐怖や嫉妬などの感情に対して記憶が)反応していることを
放置してしまっているということでありましょう。私達は自分自身を浄化しようと
していないのです。
ある出来事やある状況下で隠れていたプライドが露見し、プライドが傷つき、そ
の[記憶というプライド]が持っている[自己関心という反応]を起こしていること
に対して、許しを請い、お詫びし、感謝し、愛することをしないで、その記憶という
プライドに対し非難したり、蓋をしたり、戦って努力し改善しようとしたり、処罰し
ようとしたり、逃避したりすることによって、かえって記憶と同一化してしまい、
決して潜在意識にある記憶を浄化しようとはしません。「汝の敵を愛せよ」を
実践しないのです。
たましいからの私・自分は自由意志を用いて正しく思考し、正しいマインドの力
を使い、正しく行為し、記憶を愛し、感謝することで記憶を浄化しなければならな
いのに、(または記憶に対して判断や逃避や同一化せずにその記憶を暖かく抱
擁し、静かに、考えや思いなく凝視しなければならないのに)・・・。
自分は記憶という自我にまみれた段階なのに、自分は真我で観照者なのであ
ると(本を読んで自分は聖者と同じだと)かってに思い上がってしまって潜在意
識にある記憶・エレメンタルと同一化してしまっています。
「すべては起こっているのだ」「行為と思考は起こっている」と、その起こってる
と知覚する記憶の浄化をせず、そして自分のマインドや自由意志の正しい行使
をせずに、自己責任を放棄してしまっております。
内部と外部で起こっている出来事(恐怖など)に反応し、思考し、行為している
記憶(自分自身と実感している私)を浄化することなく、又その記憶に愛のまな
ざしをさし向けることなく、自己自我である自分の記憶を非難し、自己を処罰し、
自己を軽蔑し、自己から逃避しようすることによって自己自我という記憶と同
一化してしまっています。
自らの意志で、正しくマインドを使う事を放棄してしまい最悪の事態を自ら招
いてしまっているのです。
ヒューレン博士は言われます
私達は至高なる実在と神聖なる魂と表面意識と潜在意識の複合体であると。
私とはその潜在意識に無知の記憶を抱え込んでしまっている複合体なのであると。
どこからどこまでが記憶の反応で、どこからが表面意識のマインドなのかと、
そしてどれが記憶の反応である思考なのか、どれが表面意識からの意識
なのかとは、濁ってしまっている水がゴミと混濁して判別できないでいるように
未熟で未形成の私達(たましいと繋がっている表面意識の私)にはどれが
私達(たましいと繋がっている私)なのかの判別が不可能なのです。
私達(たましいと繋がっている私)は未成熟なので自分が誰なのかがわから
ないのです・・・それはあまりにも記憶に取り囲まれ、包まれ記憶と一体化し
てしまっているからでしょう。
記憶の私のことを誰もが自分自身だと確信して疑いません。
そして、それだからこそ記憶の浄化・クリーニングが必須なのです・・・しかし
私達にはその記憶をきれいにすることが不可能なのであると・・・それ故に
私達はその記憶のクリーニングを内なる聖なる実在に祈り、お願いするのであると。
今のこの私達の状態は表面意識が潜在意識にある記憶の中に入り込んでしまって
全く自由がなく記憶である低次思考に同一化している状態であるということ。
それでヒューレン博士はキリストの言うように
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして内なる神に祈りなさい」
「御免なさい」「許してください」「ありがとうございます」「愛しています」
と唱えなさいと言っている・・ということなのであります。
ラーマクリシュナが言うように
本当の現実は(条件付けられている脳から生じている記憶の反応が知覚器官
を使って認識している現実ではなくて)すなわちこの記憶が知覚している現実で
はないと。
この人類が全く疑うことがないこの現実とは私達(たましいと繋がっている私)が
肉体に入ったその脳から生じている記憶(無明)が見ている脳内現実なのだと。
私達(たましいと繋がっている私)は肉体と結合しこの条件付けられている脳と
一体化しているので、脳が思っている様に思い、その脳の記憶が見るようにしか
見れていないのでこの記憶が見ている現実を真の現実だと錯覚しているのだと。
生きているのは私達が生きているのではなくて大生命である神が生きておられる
のに、「条件付けられている脳の記憶が生み出した私」は自分が生きていると錯
覚し、その錯覚がさらにエレメンタルを生み出していると。
私達(たましいと繋がっている私)は記憶と一体化して怒り、恐れ、イライラし、欲望
し願うことで記憶にさらに記憶を上乗せし、想念形態(エレメンタル)を生み出している。
本当の現実はあなたと私は分離しておらず、同じ生命の全体一部であるのにそれを
記憶は私の生命で私が生きているのだと、また同じくその記憶はわたしはわたし
であり、あなたは、あなたであり、私とあなたは別々の存在であると、錯覚してしま
っていると。
無知である記憶は本当の現実をねじ曲げて、そのねじ曲げられた記憶によって
知覚された非現実を現実だと確信し、この記憶によって生じている現象世界に
DNAが、カルマが起こしている内部と外部の出来事に対して記憶が反応している。
・・・これが私達が知覚している世界・・・条件付けられている脳が生み出している
記憶による記憶が知覚しているこの実相ではない現実世界。
無知である記憶は私とあなたは同じ私なのに、私をあなたと私に分離して知覚し
見ている。その記憶の状態を見ている記憶は私もあなたも同じ記憶であるという
のである・・・。
本当の現実は内部と外部に分かれているのではないのに、それを
無知である記憶が内部と外部に分割して、あいつが悪い、世界が狂っている
という、そしてこのような世界にしたのは神に責任があると思っていると。
無知である記憶は「私の中に万物はあり、万物の中に私はある」のに
万物は私とは異なっており、私は万物と分離していると錯覚しているのだ。
・・・と。
そうして、物質界に誕生することによってこの条件付けられている肉体の
頭脳に組み込まれた、たましいの表面意識の私は無知である記憶(低次
思考)と一体化してしまったのであろうとおもうのです。
そしてこの物質界には無知が覆い、拡がっていると。
そして、転生した私達は条件付けられている脳の通りに私達(たましいと
繋がっている私)は、私は他人ではない、私は自分が生きている、私の
内部は外部世界とは別である。私と世界は別々であり、世界は世界であ
って私は世界ではない。
私は私なのだ、この思考は私が思っているのだ、私は肉体である・・・と
記憶と一体化してしまい、自らを記憶だと錯覚してしまっていることに気
がついていない。私達は私達(たましいと繋がっている私)であって記憶
ではない・・というのに。
その錯覚している私が、どの私が唱えているのだろうかなどと思
考することで私を分離させてしまうのではなく、まだ目が開いていない「複
合している私」が、記憶の私に対してありがとうございます、愛しています、
御免なさい、許してくださいと優しく語りかけるのであると。ヒューレン博士
は言う。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして「汝の敵を愛せよ」を実践するの
である。・・・私は、それはどの私ですかと記憶が思考するのと一体化するの
ではなくて、ただただ自分を愛すること、私を愛することを実践するのであると。
それが私達が唱える「御免なさい」「許して下さい」「愛しています」「ありがと
うございます」
であろうとおもうのであります。