許して下さいと誰に言っているのか
ホ・オポノポノでは「許して下さい」「愛している」と唱えるが
それは一体誰に唱えているのだろうか?
それは
私を苛つかせ、悩ませる目の前の相手にたいしてだろうか?
私が傷つけ、悲しませてしまった目の前の相手にたいしてだろうか?
ヒューレン博士はビデオの中で
それは「目の前の相手とは私の気がつかない潜在意識にある私自身なのです」
「目の前の他人とは私が自分を相手に投影しているのです。そして自分自身
を相手として知覚しています」
ですので唱えるのは「そのことを示して下さっている潜在意識の私自身」に対
してですといっている。
ですからその「愛しています」と唱えるのは自分自身に対してですと。
私の目の前の相手とは実は自分自身の姿であるというのである。
これは神道の黒住直忠師の「立ち向かう人の心は鏡なり己の
姿を写してやみん」や、クリシュナムルティー師の「見るものは見ら
れるものである」、「観察者は観察される者である」と同じ内容
であると思う。このことはこの現実の私には全く理解出来ないし、
この観点は第三の目よリ更に高次のたましいの内奥の目で見て
いる「真実」なのであろうか。「内部は外部である」といっているその
知覚は思考ではなく超意識(Kのいう気づき)なのだ。
知性や理性では計り知れない、この自他に分離している目には想像
すらできない。これは内部と外部の分離を超えている目であり、実
際に開眼している不二一元の目でそのように見ているのであろう。
そして未熟な私達は、その未知なる目に帰依し、全託し、心と精神と
思いを尽くして、その観察者・見ている者に対して愛し感謝するのである。
自分が自分自身に対して許しを請い、お詫びし、愛し、感謝するので
ある。
自他に分離している「根本無明」の中にいる私達は、まずはじめに
自分自身を愛し、感謝し、許し、お詫びしなければ、他者に出会うこと
はないのだろう。記憶が「我と汝」の関係性を塞いでいるからである。
私達が見ている現実とは潜在意識にある記憶が記憶を見ている世界
であり、この記憶の世界とは決して真実ではないと言われている。
そしてこの現実を現実として直視することが現実からの解放を齎すの
ではないか。私達(たましいと繋がっている私)の前に自由意志が起こ
っていることを直視することができれば自由意志から解放されると。
記憶が紡ぎ出しているこの現実では、相手他者とは潜在意識の中に
ある記憶(無知・無明)の姿であるというのである。本当の他者の姿を
記憶は知らないのである。記憶は個人ではなく地球で単一なのに
「私はこの肉体で個人だ」と記憶自身が記憶を錯覚(無知)している。
残念なことながら、この記憶の私は私とは何かを全く理解していないし
知らないのだ。他者ことも知らないし、他者に出会ったこともない。
他者も本当の私もこの現実(記憶)の私にとっては未知の私であり、現実
(記憶)の私は真実の私のことも、真実の世界も知ることはないだろう・・
というのもこの現実の私とは未知なる真実の私ではなくて記憶だからだ。
記憶なので「立ち向かう人の心は私を映している」などとは全く理解出来ない
し、思ってもいないのに、言葉を聞き、本を読んで、さも理解しているかの
ように自分を欺してしまっているのである。
ヒューレン博士は
私達が見て感じて出会って知覚している相手とは自分の潜在意識にある記憶
という自分自身であり、その潜在意識の中の記憶の私に許しを請い、愛さね
ば、その記憶の自己からの解放のシステムが起動しないというのである。
私を悩ますあなたとは私自身だったからである。記憶とは個人ではなく地球
全体で同じものであるからだとヒューレン博士は言っている。
目にしている出来事とは自分の内部にある自分が造り出したものであり、
自分の姿を写して下さっているのだ、起こっている事の全責任は自分にあ
るというのだと彼は言う。
嫌な相手とは、私の敵とは、私を無視し、私に意地悪をする相手とは私の事。
私を悩ましている目の前の相手とは自分自身であり、
相手とは自分が気がついていない自分の心の奥にある自分を映し出して
いる自分の姿であり、相手や敵とは自分であるから、その相手や敵のことを
癒やすのではなく、またその相手に愛を注ぐのではなく、その相手として
現れている自分自身(記憶)を愛するのであると。
「目の前の相手は私である」、「私が知覚する対象は私であり私の責任である」
このことの真実を理解する実際の知覚(超意識)が必要であるという。
敵や相手を自分自身であり、目にしている相手とは自分の責任だと実
感していないこの私は、真実を見ていない私・・・すなわちこの私は思考
の私、所謂、記憶の私であって、真実の私ではないと言うことである。
地球人類が私だと全く問題にもしたことのないこの私とは私ではなくて
記憶であるというのである。
世界を見て反応している私、自己観察しているこの私は、真実の私で
はなくて記憶の反応であるということである。
自分を見て反応している私は真実の私ではなくて記憶の反応である
ということである。
悩み、苦しみ、悲しみ、嫉妬し、痛み、狂い、恐怖し、考え、思い、眠り
、朝目覚め、生活し、行動し、仕事をし、探求している私は私(たましい
と繋がっている私)、真実の私ではなくて記憶の反応であるということである。
私達が知覚し認識している現実とは本当は真実ではないと言われている。
それは世界を見て、内部を見ている私達自身が真実の私達ではなくて
「記憶という虚偽の私」であるからであると。
真実の私ではない虚偽の私が虚偽という世界を見て、相手が悪い
「悪いのはおまえだ」「おまえをなんとか良くなるようにしなくては」「私を
よくしなければ」と記憶が錯覚しているのである。
そして記憶が起こっている出来事に対して反応している。
この現実世界とは私達ではなくて私達の中に有る「記憶」が見ている
世界であり、真実という実相を覆い隠しているのがこの現実世界であ
ると同時に本当の現実世界は実相世界であると言われている。
記憶がクリーニングされない限りは実相世界は今此処に在ることが
記憶にはわからないのであると。
私達が知覚し認識している世界とは、私達自身を投影し映し出している
のであり、それは私達にとって未知である実相真実の世界ではないと。
現実世界・・それは私達の中にある記憶が知覚し、認識している世界
であり、真実を覆い隠している虚と偽りである記憶による分離の現実
の世界である。
この真実ではない現実世界とは記憶が見ている世界、それは自他に
分離していて、内部と外部が異なる世界、記憶は自身を分離分割し
て見ているのである。
実際には内部と外部は分離していないと聖賢は教えておられる。なのに
世界と自分は異なっている別々の存在だと知覚しているのは誰か?
私とあなたを異なっている別々の存在だと知覚しているのは誰か?
ヒューレン博士はそれは私達の潜在意識にある記憶だという。
この現実の私と世界とは記憶が記憶に反応している記憶の世界、
虚偽の世界、内部と外部に分離している錯覚・虚構であると。
というのもこの虚偽世界を知覚認識している私達とは真実の私達
ではなく、私達が一体化している記憶であるからであると。
私達とは私達(たましいと繋がっている私)なのであると。
真実を覆う現実の私(記憶)が真実ではない虚偽の現実を知覚し、
認識し、思い、行い、話し、考え、感じ、毎日を必死に自分が、自分の
力で、自分の自由意志で生きていると錯覚しているのである。
私達はこの肉体は自分の肉体であり、自分が生きていると錯覚して
いるが、実際には大生命の肉体であり大生命が生きておられる。
私達は自分のDNAと思っているのだが、DNAは大生命のものであり
大生命がDNAを使って生きておられるのである。記憶も思考も感情も
五感も自己意識も、そしてこの私も。
自分が思考し行為していると記憶は信じているが実際はDNAが行為
させ、思考している。
DNAの結果である低次思考という記憶は、自分は自分自身だと錯覚
している。
しかしその低次思考は意識ではないし、意識とは低次思考ではなくて
高次思考を使っているのであると言われている。意識とは私達(たま
しいと繋がっている私)自身の属性なのであると。
そしてその記憶という自己意識が私達(たましいと繋がっている私)を
覆い包んでいると。
真実は全体性である、分離は虚偽であり、分離という現実は真実である
全体性ではない。自他の分離、世界と私の分離、内部と外部の分離
それらの分離の知覚は記憶による虚偽なのであると高次の教えは言う。
私達は全体性であり至高なる実在・未知なる大生命が生きておられると。
どの国の人たちも人種や国家や宗教とは全く無関係なのに
私は○○国民だ、私は○○人種だ、私は○○宗教だと、無知に
染まり、私は肉体であり、自分の力で生きているのだと、そのDN
Aと一体化している。
その錯覚は記憶が思っており、その記憶の現実は真実ではないと。
真実は大生命が今、ここに生きておられるのであるからである。
しかし私達の思考は低次思考であり、高次思考ではないので
自分は他者ではない、他者と異なっている個人・人格だと錯覚し
ている記憶と完全に一体化している。
私が生きているのではなくて大生命という至高の実在が生きておれ
れているのに、私達は真実を覆い隠す仮想現実すなわち記憶によ
る低次思考に覆われ・・・そしていう「私が生きている」と。
DNAが思っており、行為しており、話しており、考えており、感じており
思考しているのが記憶世界という仮想現実であり、それが実相とい
う現実を隠している。
・・・・これが記憶世界という私達の知覚している現実の真実である。
この現実の真実を見ているのは低次思考ではなくて思考であると思う。
思考には高次思考が有ると教えられているのだが、恥ずかしいことに
現在のこの私の現段階の状態は記憶に包まれており、一体化してい
るので高次思考の自己認識はいまのところない。
ホ・オポノポノのヒューレン博士が使っている思考は
・・・「敵を私ではない」と思っている低次思考を知覚している
「敵は私である」と看破する高次思考であると思う。
たましいを覆っている無知(記憶)に愛しています、ありがとうございます
という言葉を唱えることにより、内なる魂の奥の神聖なる実在の恩寵に
よって
その無知(記憶)はクリーニングされ、本来あった真実が現実となる
と教えられている。