身に纏っている三重の衣



今日は私達である「たましいと繋がっている私」が身に纏っている「衣」

と言われているものについて思索を巡らしてみました。



いま、こうして私達が怒ったり、心配したり、悩んだり、嫉妬したり、苛ついた

り、ゲームに興じたり、テレビを見たり、「目標や目的を持つという幻」に心を

奪われてしまっている日常生活においては私達はその「衣」に関心を持つ

でしょうか?



そのような「身に纏っている衣」と言われているような複雑な事象についての

思索は、まったくしたこともなく、考えることも、関心もないのでありましょう

か・・・。



実際には、私達とはざっと数えても三重の衣に覆われており、しかも、私達

である「たましいと繋がっている私」は私達の潜在意識にある「記憶」の中に

貫入してしまっているのであると教えられています。




従って為すこと、考えること、見ること、話すことの、そのすべては、潜在意

識にある「記憶」が為しているのであり、今のところ私達は目が覚めていな

いので、現況では私達(たましいと繋がっている私)には主導権がない状態

なのである。

・・・と言われています。



今こうして書いているのも記憶であり、私達(たましいと繋がっている私)は

その記憶のするように為してしまっているということであります。

なぜなら私達は衣と混合状態にあるからであり、そして尚且つ記憶と衣が

主導権を持っているからであります。記憶と衣はカルマに従って起こるよう

物事を起こし、そしてそれに対して記憶が反応しているのでありましょうか?




では改めて、ここでいう三重の衣とは何を指しているのでありましょうか?


一つ目はこの神の宮である肉体であり脳のことであり、二つ目はその肉体

を維持して下さっているエネルギー体(エーテル複体)のことであり、三つ目

がカルマによって起こる事が瞬時も違わず起こるようにセットされている思

考体と感情体(サイコノエティック体すなわちアストラル体・メンタル体)であ

ると言われています。


・・この諸体については・・いろいろと各派によって呼び方は異なっていても

肉体と同じように、肉体と重なって機能している「私達が身に纏っている身

体=衣」のことであると思われます。





ホ・オポノポノでは、肉体に入ったこの「たましいと繋がっている私」のことを

「表面意識と潜在意識の私」と言っており、その二つの意識は超意識と呼

ばれている「たましいの私」と繋がっており、さらにそのたましいは内奥で

「内なる実在」と繋がっているのであると説明しています。




しかしながら私達(たましいと繋がっている私)の現状は、それらの肉体や

思考体と感情体を身に纏っているだけではなくて

さらに私達である「たましいと繋がっている私」はその魂と繋がっている部分

・・・それがコーザル体とか永遠の原子または全人類共通の汎潜在意識

といわれているのであろうと推測しております。・・・その永遠の原子の中

の汎潜在意識の中にある記憶に包まれているといいます。

この潜在意識にあって私達を包み込んでいるのが「記憶」であり、残念ながら

私達はその「記憶」に全く覆われてしまっているのであるといわれております。

そして実際に行為し、思い、感じ、欲し、悩み、怒り、反省したりしているのは

その記憶であると教えられております。




ホ・オポノポノではこの潜在意識のなかの「記憶」といわれているものに私達

は包まれてしまっている、その記憶の中に入ってしまっているといいます。




・・・すなわちそれは、私達「たましいと繋がっている私」が自分自身だと錯

覚しているもの(私達が無知とで会うことで生み出した)=記憶であり、その中

に私達はどっぷりと入り込んでしまって、全く身動きがとれない状態になっ

ているというのです。


記憶が行為を起こし、そして行為を正当化したり、非難したり、対策を講じたり

反省したりしているのであると・・・。



私達(たましいと繋がっている私)の第三の目が覚めて、再形成されていな

い限りは、私達が思うこと行うこと話すこと聞くこと見る事のすべては「記憶

」が行っているのであると言うことであります。



記憶が潜在意識にあって肉体や思考体や感情体を支配して動かし行為し

思い、思考しているのであると。



・・・いやいや正確に言えば私達(たましいと繋がっている私)は記憶が行っ

ているのと同じように行い、見て、思って、話して、聞いてしまっていると言う

ことであります。私達は記憶と一体化しているのでそれを分離できず、記憶

から自由になることができていないのです。・・そしてカルマを作り出すのです

と。



私達は記憶からまったく自由になっていないのです。




目が覚めていない現状では、私達(たましいと繋がっている私)は、その記

憶が為す様に為してしまい、記憶が考えているように考えてしまい、判断し

評価し、自他を区別し、善悪を分離し、自分を憎んでいるのはその記憶で

あることに気がつきません。未発達な私達(たましいと繋がっている私)は

記憶が命ずるように行為し、記憶が思うように思い、記憶が知覚し認識した

直後に知覚し認識していると言うことであります。





私達の目が覚めていない以上は私達(たましいと繋がっている私)は起こ

っている事に対して、私達には主導権はなく、起こった直後に出来事に参

加してしまっていると言うことであります。行為と思考は記憶が起こしてい

るのであると。



・・そして、私達(たましいと繋がっている私)は記憶と一緒になって行為し

ているのでその行為の責任を身に引き受けることとなる

・・ということでありましょう




これは非常に複雑なので理解するのに一苦労してしまうことであります。








ホ・オポノポノでは、このことを非常に平明で簡単な言葉で「私達は記憶が

思うように思い、記憶が話すように話し、記憶が行為するように行為してい

る」とシンプルに話しておりますが・・


実際には、これらのことは、頭で整理するだけでも非常に複雑なことであり、

正しく理解するということはヒューレン博士が言うような簡単なことではない

と思われます。ヒューレン博士にとってはシンプルではっきりとして簡単であ

っても、私達にとっては非常に難しく、理解不能な、しかも、ヒューレン博士

が推奨する「クリーニング」を実行するには相当な覚悟と決意が求められ

ているのであり、非常に厳しい事柄だからです。



三重の衣に覆われている私達(たましいと繋がっている私)は未だに未熟

で未形成であり、さらに潜在意識にある記憶(無知とで会うことで私達が生

み出した)の中にどっぷりと漬かっていて、その潜在意識にある記憶と一体

化して染まりきってしまっているので、

私達(たましいと繋がっている私)は自分自身をこの記憶のことだと信じて

疑わず、「あいつが悪い」「私が悪い」「私の肉体だ」「この欲望や、感情は

私が思っているのだ」「この感覚はわたしのものだ」「この考えや思いは私

が思い考えているのだ」「私が自分を自己観察しているのだ」と言って

いるその記憶のことを自分自身の心だと錯覚していて、何ら疑うことがあり

ません。



そして、その潜在意識にある記憶は、自分自身である記憶を観察して、記

憶に対して非難したり、判断したり、逃避しようとしているのです。・・・そうし

ているのはそれは記憶であるからだからでしょう。



私達は私達(たましいと繋がっている私)であり、思考なく、非難なく、判断な

く、愛し、許し、感謝している魂で有るのに、私達(たましいと繋がっている私

)は目覚めていないので、記憶と一体化してしまって、記憶がするように自分

を非難し、自分を憎み、自分を許さず、自分に感謝せず、自分を愛さず、自

分を判断し、自分をあるがままに受け入れずに自分から逃避しようとして

しまっています。



自分自身を自分の潜在意識にある記憶だと信じて疑わないのであります。



残念ながら私達(たましいと繋がっている私)は記憶に占領されてしまって

いるので思う事も、話すことも、行うことも、見る事も、考えることも・・・

・・それは記憶が行っているのだといわれております。



私達(たましいと繋がっている私)は自由がないこと、記憶に占領されてしまっ

ていることに対して全く決して気がついておりません。




しかしながら私達(たましいと繋がっている私)には、成長するに従って思考

ではなくて心を、正しい心を使うこともできるのであると言われております。



私達(たましいと繋がっている私)とは本来は空であり、無限であり、思考に

とっては無であっても、鏡であり、その鏡は心を使役することもできると言わ

れております。



しかしながら現状においては

私達は目覚めていないので、肉体がなければ、見る事も話すことも、行うこ

ともできませんし、その見て感じて話すことができるのは記憶ではない三重

の衣のおかげであるのですが、私達(たましいと繋がっている私)はいまだ

見る目(第三の目)が開いていないので、見る事ができないのに、自分が

見て、話して感じていると思ってしまっています。が、実際に見て、話して、

感じて、行為して、思って、いるのは記憶であると言われております。



私達(たましいと繋がっている私)は自分自身である私(たましいと繋がって

いる私)を覆っているその記憶をはっきりと見て、ホ・オポノポノの言うように

「御免なさい、許してください、愛しています、ありがとうございます」と、その

記憶を愛することが、記憶からの解放に繋がっていく・・・・

ということなのでありましょう。




最後にこの記憶に対しての責任ということに関して、精神世界でも大きな

齟齬があります。記憶が起こしている行為の責任は私達(たましいと繋が

っている私)にあるとヒューレン博士は言います。


観照者である超意識という魂の立場からすれば、行為と思考の責任はない

のかもしれませんが、私達(たましいと繋がっている私)が無知と出会って

生みだした記憶・・・その記憶が起こしてしまった行為・・・そしてそのカルマ

・・・の責任は誰にあるのでしょうか?それは記憶と一体化して行為してしま

った私達(たましいと繋がっている私)にあるのではありませんか?



安易に覚者の書籍を通読して、私は魂なので行為の責任は存在していない

・・と嘯く軽薄な信者に対して、ヒューレン博士ははっきりと、その記憶と行為を

生みだしたのは、この私達(たましいと繋がっている私)であり、行為と思考の

責任はこの私達(たましいと繋がっている私)にあり、それ故にこの私達には

(たましいと繋がっている私)である潜在意識にある記憶の浄化(クリーニング)

が必須であると説いておられます。


ではホ・オポノポノでいう「記憶」とは何でありましょうか?

そこはあまりヒューレン博士は触れていないようにおもわれます・・・



私が推測するには・・それは「なるbecoming」「するdoing」であろうとおもいます。

無知、神のマーヤ、根本無明などと言われているものではないかと思います。


そして私達(たましいと繋がっている私)は「なる」「する」に覆われ、包まれ「な

ろう」「至ろう」「○○しよう」と記憶に貫入してしまいます。しかしながら私達

は「なる」「する」記憶ではなくて、「在る」・魂であろうとおもいます。


いまこれを書いている私も、読んでいるあなたもどちらなの「私」でありまし

ょうか?


「なる」「する」は記憶が起こしているのでありましょう。


「なる」「する」とは見ている事、行為していること、思う事、聞くこと、知覚、

認識、目標、理念、計画、努力、判断、思考、高低、善悪、など動くことであり


「在る」とはそれら「記憶」という「する」「なる」が無い状態のことでありましょう。

と推測しております。


私達(たましいと繋がっている私)に大切なことは「なる」「する」から離れて

「在る」すなわち魂に入っていくことであろうとおもっております。