なぜ「愛している」と唱えるのか?



ホ・オポノポノでは何故「御免なさい、許してください、愛しています、

有り難うございます」と唱えるのだろうか?



それは、私達が自分を忘れ果てているので自分を思い出させる

ためであると言う。



では、それは誰に対して唱えているのであろうか?

それは本来の私であり、本来のあなたであり、万物である「内なる

至高の実在」に対して唱えているのであろう。



私達は記憶ではなくて、たましいと繋がっている現在の私(現在の

パーソナリティー)であることを思い出し、私に戻る為に唱えるの

であると。



私達に取り憑いている記憶から私達が解放され、本来の私を思い

出し、本来の自由を取り戻すために唱えるのだという。




この現在の私は記憶と一体化していて、自分のことを記憶の反応

だと思い違いし、記憶に従っているので、記憶が行為するよう

に行為し、記憶が思うように思い、記憶が考えるように考え、記憶が

するように怒り、嫉妬し、支配しようとし、恐れ、憎み、悲しみ、満足

し、欲望してしまっていることに対して、「至高の実在」に向かって「御

免なさい、記憶と一体化してしまい御免なさい」「記憶のことを自分

だと思い違いしてしまって許してください」と唱え話しかけるのである。




「私は記憶と一体化してしまい、記憶の反応を私だと勘違いしてしま

い御免なさい許してください」、「記憶がするように行為してしまって、

御免なさい、許して下さい」と

内なる聖なる実在に対して、懺悔し、回心するのであると。




また同じようにたましいと繋がっているこの現在の迷える私とは、本

当は愛することができ、また愛されているのに、「私は記憶だから私

には愛が無い」「私は愛することはできないのだ」と錯覚している。



自分とは記憶の反応であり、「思考には愛が無いので自分には愛

することができない」のだと「記憶と一体化してしまっている」のである。


だからそれ故に私達は本来の自分に戻るため、そしてまた本来は

愛なのであるから「愛しているよ」と唱えるのであると。



私達は「記憶を自分だと思い込んで信じて疑わない」・・・そのような

状態であり、「自分は脳の化学的反応だ」と誰もが疑うことがない。

・・・・。


私達は「自分は思考であるから思考なく見ることはできない」と自分と

思考を全く同一化してしまっている。


それは全く違うのである。たましいと繋がる私とは思考ではなくて「鏡」

なのであると。


繰り返し述べさせていただくが。

現在の私(現在のパーソナリティー)は本来は内なる愛と繋がって

いるので、私達には「愛する」ことができ、「思考なく見ること」ができ

るのである。・・・ただし記憶がクリーニングされていれば・・・・。



だから自分を再び思い出すために「愛しています」と唱えるのであると。


「御免なさい、許してください、愛しています、有り難うございます」と

唱えるのは本来の私に戻る為なのである。



私達は、無限の愛を与えられているからこそ今こうして生きているこ

とができているのである。


そのことに対して「ありがとうございます」と唱えることによって、本来

の自分を思い出すことができるのであると。



本来の自分に戻ろうとして「御免なさい、許してください、愛していま

す、有り難うございます」と「内なる至高の実在」に対して、潜在意識

にある記憶を浄化しクリーニングしてくださるようにお願いするので

あると。



この現在の私(現在のパーソナリティー) は無限に愛されていること

に気がつかないので、感謝する事を忘れ果て、記憶と一体化している。



・・肉体は自分のもので自分が呼吸し自分が生きていると錯覚している・・



それ故に私達は自分自身に戻る為に「御免なさい、許してください、愛

しています、有り難うございます」と唱えるのである。


私達は愛し愛されているのであり、そのことを記憶は知らない。条件付

けられている脳は知らない。



この現在の私(現在のパーソナリティー) は愛であり、そして愛されて

いるのであって、本来の自分に対して「御免なさい、許してください、愛し

ています、有り難うございます」と唱えるのであると。