あなたに出会うために




「メモリー(潜在意識の中にある記憶)がある限りは相

手を見ることはできない」



「メモリー(潜在意識の中にある記憶)がある限りは

そのメモリー(記憶)が自分の中のメモリーを相手と

してみていているので、それは相手ではない」



「私(記憶の私)が見ている相手とはこの私(記憶の私)

自身の姿なのである」



「メモリーが見ている私やあなたとは、私の中の私(記憶

の私)であって、それは私ではない。メモリーがメモリー

を見ているのだ」



「メモリーが消去されれば相手は美しく見える」


「メモリーが消去されれば相手は神の姿に見える」


「メモリーが消去されれば私は万物とひとつである」



とそのようにヒューレン博士は言っている。




ヒューレン博士は私達が私だと思っているのは、実は

私ではなくて、「潜在意識の記憶が反応している」のを

私達は自分だと思ってしまっているのだと言っている。

その記憶が思い、考え、信じ、感じ、行為しているのだと。

私達である肉体に結ばれた「たましいからの意識」は、その

記憶ではなく、また記憶の反応である思考でもない・・・

といっているのである。





私が見ている夫や妻や子供や相手や敵や味方とは自分

の潜在意識の中にあるメモリーの姿であり、

私が非難している相手・他者とは、自分の中のメモリーで

あり、それは私(記憶の私)の姿なのであり、その私とは

たましいと繋がる私ではないと。



私が発見する私の中の不安や恐怖や暴力や欲望や感情

や思考はたましいからの私ではなくて記憶の姿なのですと。



またその不安や恐怖や欲望や思考や感情を見ている私も

それらである記憶なのです・・・といっている



私達は人生の中で自分が思い、感じ、欲し、考えていると

思っているのだけれども、潜在意識にある記憶が思い、感じ

欲し、考え、行為しているのですと。


従って


この自分の中のメモリーが消去されない限りは、私は今回の

生涯の中で誰にも出会うこともなく、私にも出会うことはないと。


従って相手である「あなた」(それが妻であっても夫であっても

子供であっても、上司であっても、隣人であっても、テレビの

司会者であっても)に出会うことはない。


人生の中で私(記憶の私)が見ている他者あなたとは、私

(記憶の私)の姿なのであって、たましいからの私ではないと。


私(記憶の私)が見ている私とは、私(記憶の私)なので

あって、それは私ではないと。



私が憎んでいる相手は私(記憶の私)なのであり、憎んでいる

その相手も、そしてそれを見ている私も、私の潜在意識の中

にある私(記憶の私)なのですと。



私が非難している相手や私とは私(記憶の私)なのであり、私

が私の心の中に発見する私、すなわち暴力と憎悪と不安の私

とは、わたしの潜在意識にあるメモリー(私(記憶の私))なの

であると。私達はメモリーに占領されていて自由がないのですと。




メモリーが消去されない限りは、私は自分に出会うこともなく

妻や夫に出会うこともない。この潜在意識の中にある記憶の

私は常に人を利用しようとしていて夫や妻さえ利用しようとし

ている。そのメモリーが消去されない限りは妻や夫に出会う

ことはないと。

従って「我と汝」の関係性は、そこにはないことだろう。


その記憶、私(記憶の私)が消去されたとき、そこに万物

と分離していないたましいからのわたしがいることだろうと。



覚者達がいうように

「あなたは空であり、無限であり、すべてなのです」

「私やあなたと出会うためには万物を愛することです」

そのためには

「私(記憶の私)を愛することだけが決め手となることだろう」と。



キリストは言う

「汝の敵を愛せよ」「愛せよさらば愛が与えられるであろう」と。