関係性
関係性とは何のことだろうか?
関係性とは「我と汝」の関係であり、「我⇔汝」の関係性である事だろう。
では私達はその「我と汝」の関係性を持って生きているというのだろうか?
それとも未だこの人生では関係性はもっておらず、親や子や妻や夫とも
実際は関係しておらず、勿論自分自身とも関係しておらず、ただ単に
相手を利用し、支配し、自分の願望欲望の成就・満足の手段としてしか
相手を見ていないのではないだろうか?
従って、私達は、いまだ「我と汝」の関係性になく、親や子や妻や夫や自
分自身とも関係していないということである。草や木や動物や万物一切
達との関係を、同調という関係を持っていないと言うことである。
・・・即ちまだ人生を生きていない・・・ということなのではないか?
・・私達は自分とも、そしてこどもとも、親とも関係していないということ
である。・・・それはとりもなおさず、あるがままの自分を愛しておらず、あ
るがままの親やこどもや夫や妻を本当の意味で愛していないことから明
らかであろう。
私達は「自分のイメージ即ち記憶である私自身」を他者に投影し、自分
自身の姿を親やこどもとして見ているに過ぎない。他者として知覚している
相手とは自分自身のことであろう。
(この際のこの自分・私とは、未知なる本当の自分ではなくて、日常生活
で知覚し、判断し、質問し、理解しているつもりになっている記憶のことである。)
では関係性とは何のことを指しているのであろうか?
それは、未だこの人生で誰とも、そして自分とも「我と汝」の関係性を持っ
て生きたことのないこの久保栄治にとっては答えることは出来ないが
あえて推測することだけは出来る。
マルティン・ブーバーやヒューレン博士が言うように私達が知覚している
自分自身や相手の人とは、・・・・実は自分自身を投影して他者として認識
しているのに過ぎない。
記憶が妻や夫や親やこどもとして、記憶自身を目の前の相手として知覚し
ているに過ぎない。
未だ「我と汝」の関係性はそこにはなく、「我とそれ」という擬似関係即ち
相手を利用し、相手を対象として知覚し、相手を通じて自己の願望を叶えよ
うとしている記憶に過ぎない。その擬似関係性には記憶に支配された「我と
それ」、常に相手を利用し利用されようとする関係性しかそこにはなく・・・
それは決して心が通い合う「我と汝」という関係性ではない。だから愛を与
えなければならない。
知覚される相手とは知覚している記憶自身であり、記憶が内部と外部に自
分自身の姿を投影し、その記憶が記憶自身を見て、知覚し、判断し観察し、
そして自分を非難し、他者を非難しているに過ぎない。
記憶は自分自身を欺しており、自分の内側を外側に投影して知覚し、自分
を非難し、相手を評価しているのだと言うことに決して気が付くことがない。
私が見ている親やこどもとは記憶が知覚しているのであって、その知覚され
ている相手の姿とは、本当は自分自身(記憶)の内実であり、見ている自分
自身の姿であり、それは即ち記憶が見ている記憶自身の姿なのであると。
私達が観察している他者や自己とは、たましいと繋がる私を覆っている記憶
自身の姿なのであってけっして本来の私ではないと。
たましいと繋がる私は記憶と完全に一体化しているので、自分が見ていて、
自分が考えていると思っているのであるけれども、実際は記憶が自分の姿を
他者のたましいという鏡に投影し、その鏡に写し出された記憶自身の姿に
記憶が憎悪し、イライラし、怒り狂い、嫉妬し、恐れ、非難し、判断している。
他者のたましいも自己の魂も神の細胞の一つであって決して分離していない
というのに。
自分自身を判断し、非難し、自他を善悪に分け、分析しているのはたまし
いと繋がっている私ではなくて、そのたましいと繋がる私を覆い尽くしている
記憶なのであろう。
それは記憶とは「私という観念」なのではないか。
この自分を覆い尽くしている「記憶」が取り除かれない限りは、私達には
関係性は決して顕れず、私達は誰とも関係していない。親やこどもや妻や夫
とも関係していない。私達は自分が見ている親やこどもや夫や妻とはたま
しいである親やこどもや妻や夫ではなくて実際はそれを見て観察している
記憶自身の姿であるという事に気がつかない。
仕事をこなし思考している私とは、実際には私ではなくて、私を覆い尽くし
ている記憶であって決して私ではないことにたましいと繋がる私は眠って
しまっていて気が付かない。
何故なら私とは未形成であり半覚醒状態であり、記憶が、そして記憶の
反応が取り除かれなければ、「意識」は顕れず、自分や夫や妻やこどもと
の本当の関係性は未だないと。記憶が意識の座からクリーニングされなけ
れば「思考なくあるがままを見る」ことはできないと。
・・・即ちマルティン・ブーバーの言う「我と汝」の関係性は人類の私達に於
いては未だ樹立していないのである。
・・・本当の私達とは「我と汝」の関係性それ自体であり、それは別名「愛」と呼
ばれているのだと。教えられている。