真理の概念的理解とは誤解



真理の言葉や悟った人の言葉は私達には理解することが出来ない。


記憶し、丸暗記して読んだり話したりは出来るがそれは全く真理ではない。


真理は印刷され、保存され、読んだり、聞いたり、受けとったり、伝えたり

することは出来ない。


受けとったり伝えることが出来るのは記憶でありそれは情報であり、共有

出来るものであり、即ち思考であり、それは概念・哲学に過ぎない。


真理の概念的理解即ち哲学は真理の誤解である事だろう。

哲学では「真理を知ることは出来ない」または「思考には真理はない」ことが

分かるのが限界である。



悟った方々の言葉を理解したと思い込み、その言葉を丸暗記して

記憶することは出来るのだが、決してこの五感が起動している

限りは理解することは出来ないだろう。超感覚が誕生していないか

ぎりは直覚は訪れないことだろう。



真理を理解するにはその言葉を話している人と同じレベルにいなけ

ればならないからである。



即ち思考が停止して「思考なく見ること」が実現していなければ、聖書や

仏典や悟った方々の言葉を暗記しても決して理解することがないだろう。


理解のキーポイントとは「思考の停止」「記憶のクリーニング」即ち

「自我の終焉」であることだろう。


聖書を丸暗記しその言葉を話しても、仏典を読んで暗記して人々に話

しても、それは単なる概念・言葉の暗記であり、その概念・言葉とは決して

真理ではなくて、それを暗記している人の「記憶」の反応であり、そ

こから発せられているものは思考という自我の悪臭である事だろう。



概念や哲学では真理は存在していないと結論づけることだろう・・

何故なら概念や哲学では真理には接近できず、思考の概念やそれを

駆使する純粋理性では、真理は知覚認識することが出来ないので思

考による哲学では真理そのものの存在を否定してしまうことになるだ

ろう。




哲学では真理には接近できないのである。いくら思索を重ね熟考し

ても真理は知覚できない。思考の概念や純粋理性では決して真理

や覚者達の言葉を理解することは出来ない。・・という思考の限界

に思考が気が付くことは出来るが、それは真理の理解ではない。

それは単なる哲学に過ぎない。真理の錯覚に過ぎない。



理解のためには五感覚を超えて直覚という超感覚が初めになければ

ならないし、その直覚は変性意識や超能力ではなく、物や植物や動物

たちとの愛が溢れる意思疎通として顕現すると言われている。


その時には、その万物との一体感の中に「愛」と「感謝」と「平和」が溢れ

だしているという。そこには「知っている私」は存在していない事だろう。


真理は表面意識の中に今まで居座っていた「真理は伝えることが出来

ると思っていた私」が空っぽである時、その表面意識を通じて真理が

溢れだしていることだろう。



その「空っぽになった人」を通じて愛があふれ出している。何故なら愛

である真理がそこに顕現していることだろうから。


純粋理性や哲学などの知的接近では真理には近づけないことをまず

はじめに理性や思考が気が付かねばならないのではないか。


それが哲学の限界であり、哲学の役割であることだろう。



では真理とは?


多くに時代に、多くの異なった言語で、多くの賢者が同じ真理を伝えている。


但し思考や記憶では知覚し認識できない真理を伝えている。

万物を分離していると錯覚する記憶・思考がいる限りはそれは知覚できない。


それは

「万物の中に私は在り、私の中に万物は在る」

「見るものは見られるものである」

「あなたは私、私はあなた」

「神は私、神以外何ものも存在していない」

「汝はそれである」

などである。