表面意識とは?
ホ・オポノポノでいう表面意識とは何を指しているのだろうか?
それは魂と繋がっているが潜在意識にある「記憶」に全く染まってしまって
いて記憶が思っているように思い、記憶が話すように話し、記憶が行うよう
に行ってしまっている私のこと。
本来自らは、透明であり、「空」であり、話すことも、思うことも、行うことも
していない「意識」であり。「思考なく観照し」「判断や評価や同一化せず眺め」
ている「鏡」のような存在であり、そして且つ「自由意志」を持っているという
意識のことなのであろうか。しかし殆どの方は思考を意識だと思い込んでいる
ので、思考がなければ意識は存在出来ないと考えることだろう。それは
その方に「思考を観照している意識の実在」という個人の体験がない故で
あり、その体験がない場合はどうしてもそう思わざるを得ないのである。
意識は思考ではなく、鏡であり、空であり、自己なく観照していると言うの
である。その意識(脳や記憶に依存しない、サイコノエティック体)が未発
達なのでその自分を知覚することも認識も出来ないのであると。
ホ・オポノポノでは、「記憶」という言葉で何を指しているのかは余り触
れていないのでよく分からないけれども、思うにこれは根源的な想念の
ことであり「神聖なるマーヤ」のことではないかと推測している。
神聖なるDNAのことではないのかと推測している。
私達、魂と繋がっている表面意識は肉体に入って条件付けられている脳と
結合した結果、この条件付けられている脳によって生じている思考と行為、
脳が生み出している五感覚や知覚と同一化してしまっている。表面意識
自体の知覚(サイコノエティック体の知覚)である拡張された時間と空間に
拡がっている知覚は眠ったままになっていて、この肉体の知覚しか認識
されていない。そしてさらにこの肉体を私自身と錯覚している表面意識は
DNAによって生じているこの出来事や思考と行為に一体化し、記憶が
行為しているのに自分が行為していると固く確信して誰もが疑うことはな
い状態になってしまっているのだと。
通常は私達は人生では自分が考えて、自分が思って、自分が選択し、自分が
感じて、自分が行為し、自分が話していると誰しもが疑うことはないのだがホ・
オポノポノではこれらは魂と繋がっている表面意識が為しているのではなくて
潜在意識を占有している記憶が起こしている反応であり記憶が為していると
いっている。
何故ならば魂と繋がる表面意識は幼く、未だ目覚めていないからであると。
エレブナではこの魂と繋がっている表面意識の私の事を「再形成されていない
サイコノエティック体の私」・・即ち未発達で未熟な現在のパーソナリティーと
言っている。但しここでいう現在のパーソナリティーとは脳の反応や記憶の
反応である人格や個人のことではなくて、殆ど眠ってしまっているが「魂と
繋がっている私」のことであり即ちこれがホ・オポノポノでいう表面意識のこ
とだと思う。
そしてそれは自由意志を持っているという。
此処が非常に重要であり、記憶と同一化している限りは「記憶には自
由意志がない」ので繰り返し行っているだけだが、表面意識の私には
自由意志が有り、創造と破壊の能力があるのである。しかし目覚めて
いないので記憶がすることを為してしまっているのであると。
ヒューレン博士が「世界の責任は自分にある」というからにはその前提
条件として表面意識の自由意志を措定せざるを得ないのである。この私は
善悪と、高低と、破壊と創造と、憎悪と愛と、真理と虚偽の選択の自由を
持っているのである。記憶と同一化してしまうのも自由意志が与えられて
いるからなのである。
ホ・オポノポノでは思考は記憶の反応であり表面意識ではなく、知性や
理性は記憶の反応であると云っているので、その表面意識とは記憶を記
憶と観照している(眺めている)意識、意識の座の意識、グルジェフの言
う高次理性の事を指しているのかもしれない。しかしながら表面意識には
脳の反応があり、そして記憶からの思考が溢れ、それに同一化している
表面意識自体の意識が混在していて、どこからどこまでが記憶の反応で
あり、何が脳の反応であり、表面意識の意識が何なのかは複合し混合し
ているので、それを見極めるのはきわめて難しい状況になっている。
それなのでクリシュナムルティーはいつも人類に対して「思考なく見なさ
い」「私なく見なさい」と教えられていたのであろう。
その私とは肉体に入り脳と結合している私達のことであるけれども、記憶と一体
化してしまっているので現在は殆ど自分自身を意識していない状態となって
おり、本来は魂と繋がっているのだけれども、今のところは未形成・未覚醒
・未発達で眠ったままのような状態である私・現在のパーソナリティーのこと
である。
ホ・オポノポノではそれを表面意識といっているように見受けられる。いま
意識されている現在意識と言われている表面意識は記憶の反応に染まり
きっているが、しかし「意識の座」を覆っている記憶とは全く異なるのである。
そしてその表面意識は半覚醒状態で自分自身のことを、肉体や条件付け
られている脳の反応やその記憶である個人・人格だと思い込み、思考や感
情や行為と同一化しており、記憶の反応のことを「自分自身だ」と錯覚して
殆ど眠ってしまっている状態なのであろう・・・・哀れな表面意識であるこの私。
この私とは、未発達、未形成であり再形成されていないが魂と繋がってい
る現在のパーソナリティー・サイコノエティック体の私のことであろう。
ミルダッドは確か「私達が解放されるためには、ブラフマンとの収支決算に
於いて愛が決算として残っていなければならない」という意味のことを述べ
ている。「愛(恩寵・理解・気づき)は愛することで与えられる」のであろうか。
さて
私達とは三層構造から構成されているとホ・オポノポノでは言っているが
それは記憶の反応を含まない、表面意識+潜在意識+超意識(魂)である。
そしてその表面意識は条件付けられている脳の反応である五感や、脳が
受信している知覚認識、そして、その記憶からの反応である思考や感情を
「眺めるのではなく見て」しまっている。記憶からの知覚と認識のことを「愛
と感謝を持って眺めるのではなくて、同一化し見てしまっている」ことにより、
私達は記憶に巻き込まれ記憶の反応である思考や感情を自分自身だと思
い込んでしまっているのであろう。
即ちその記憶が「していること」「見ること」「感じる」「考える」ことを愛を持っ
て「観照し眺める」のではなくて、自分と分離している対象として自身と他者
を見ており、それによって巻き込まれてしまっているのが表面意識の私の
現状であることだろう。
見ている私は見られている私であり、それは潜在意識にある記憶なのだと
いうのである。ヒューレン博士は見られている目の前の他人とは、見てい
る私だと教えておられる。記憶は私の中にあるから私の責任なのだと。
目の前の他人とは私自身であり私の責任だというのである。
記憶は他人を対象として見ているのだが、浄まっている表面意識の「高次
知性」の目には、自分自身や他人や世界を自分が見て観察している対象で
はなくて、見て観察している私自身であると、実感しているのである。
だからこそ殺す者も、殺される者も私であり、その殺す者の責任も、殺され
る者の責任も私にあると云っているのであろう。
またその高次の目には「見る者と見られるものは分離していない」と見てい
ることであろう。・・・それが、それこそが魂の目、即ち「愛」の目であろうか。
私達、未発達な表面意識は、記憶が対象を見るのと同じように対象を分離
して見てしまっているので、「分離なく眺める」「観照する」を行うことがなく
他者や自分自身のことを分析し、分類し、非難し、観察者と観察される者に
分離した状態に陥っていると言われている。
「眺める・観照する」とは「自己及び他己」のことを対象として冷たく観察して
いる観察者の目の状態なのではなくて、自他のことを愛の中で見ているの
である。「愛しているよ」と自分に対しても、目の前の如何なる生物や無生物
に対しても自分自身と分離のない愛を与える状態で見ているのである。
「主体と客体を共に分離なく愛している」のである。
しかしながら、表面意識が殆ど眠った様な状態の私達は、記憶の目で自分
と他者と世界を「分離して見て」しまっているのに、それに気が付くことなく
自分を対象化し、また他人を対象化し、その記憶の目で観察し、思考し、評
価し、判断し、自己や他己に対して愛で眺めないで、対象として冷たく見て
しまっている・・
・それが私達・魂と繋がる現在のパーソナリティーである表面意識の現段
階の状態ではないか。自他のことを判断し、評価し、逃避し、その知覚と
一体化してしまっている。即ち記憶と全く一体化してしまっている状態である。
ホ・オポノポノでいう表面意識とは「分離して見る」のではなくて「非分離の観
照」(眺めている)している意識の事であると思われるけれども、この私達・
魂と繋がっている現在のパーソナリティー・サイコノエティック体の状態(エネ
ルギー体やエーテル複体のことではない)は再形成されていないので、私
達のこの表面意識とは眠ったままの状態となってしまっており、脳や記憶か
らの反応のことを自分の意志であり、自分の行為であり、自分の知覚であ
り、自分の認識だと固く固く信じ、認識し錯覚し続けている。自分の自由意
志で「自由のないDNAの結果である記憶」を選択している。
以上の事を仏教の観点から見てみると
ここでいう、私達表面意識である現在のパーソナリティーとは「唯識」のい
うところの六識(記憶・思考)のことやその記憶の集合意識である七識(末
那識・潜在意識にある記憶群・個人、人格群)のことではないと思われる。
唯識でいうところの六識(意識)とは、条件付けられている肉体及び脳から
創り出されている思考や感情やそれぞれの五官による感覚から発生
した自我としての知覚であり、完璧にDNAに従って起こっている反応であり、
それの記憶(第七識・末那識)を私達(魂と繋がっている現在のパーソナリ
ティー)は自分自身だと錯覚しているのであろう。私達とは本来清浄無垢なる
第八識・阿頼耶識なのではないだろうか。記憶の反応としての理性や知性
では自分自身である表面意識は到達できず理解できないのである。
私達は魂と繋がっているのだが、再形成されず、未発達、眠った様な状態
である。しかしながら私達は現在のパーソナリティーであり、表面意識であ
り、私達は脳から生じている第六識、やその記憶である第七識(末那識)で
もないのである。
「見ている」「感じている」「考えている」「願っている」「判断している」「行為し
ている」「評価している」のは、未発達で未形成の私達(魂と繋がっている
現在のパーソナリティー)が起こしているのではない、私達が同一化してし
まっている記憶が起こしているのであると。私達とは透明なる鏡なのであると。
それらの「見ること」「思うこと」「行うこと」「感じる事」「考えること」は八識
(阿頼耶識・人類全体の潜在意識・コーザル体)の中にある七識(末那識)
や条件づけられている脳の反応である六識なのであろう。
ここで仏教の「唯識論」では私達である「魂と繋がっている表面意識」の事を
殆ど述べていないのは、魂に繋がる私達の覚醒には、ここで述べている
これらの理論が持っている「自我増強」への危険性・障害があるからであ
ろう。
しかしながら
このホ・オポノポノで言う私達の表面意識とは、今のところの現況では未形
成で未発達で、眠ってしまった状態であり、全く、脳からの認識と、潜在意
識にある記憶からの反応と同一化してしまっているので、悲しいかな自分自
身に目覚めておらず、自分が自分を知ることも無く、自分自身が自覚され
ていないのである。
・・・その証拠が殆どの私達にはあらゆる無生物や生物と意思疎通するア
チューメント・同調という能力、超知覚がないことである。条件付けられて
いる脳が条件付けから解放され、眠っているDNAが機能すればその超
知覚は恩寵として機能し始めることであろう。
現在の私達地球人類の段階・・エレブナで言うところの私達(魂と繋がって
いる現在のパーソナリティー・サイコノエティック体・表面意識)の状態とは
五段階中のまだ二段階目にしか達していないと教えられている。
エレブナで言うところの私達人間の意識の発達段階とは、この表面意識の
状態のことであり、脳の条件反応である六識や、記憶からの条件反応で
ある七識・末那識・人類共通の自我意識のことではなく、肉体に入り脳と繋
がった私達・サイコノエティック体現在のパーソナリティーの状態・レベル・
段階であることに留意したい。
※ここで言う現在のパーソナリティーとは記憶の結果である人格や個人を
指しているのではなくて、魂と繋がっている「コーザル原子(体)としての私」
を指しております。現在のパーソナリティーとは現在の人格のことではあ
りません。少々複雑で申しわけありません。個人・人格とは記憶の反応であり
現在のパーソナリティーとは永遠の原子(コーザル体)を介して魂と繋がって
いると教えられております。そして更に魂は根源を構成している一細胞なのですと。
エレブナで言う地球人類の表面意識の五段階
1:本能的意識状態
(動物と余り変わらず脳の条件反応のままに生きている)
2:潜在意識的意識状態
(この状態が現在の地球人類の意識レベルであり、条件付けられてい
る脳からの思考や感情行為の記憶、即ち潜在意識からの反応と全く
同一化して生きている意識状態のこと)
3:意識的意識状態
魂と繋がっている私達・現在のパーソナリティー(表面意識)が肉体に
入り脳と結合して幾多の困難と試練を乗り越えて徐々に覚醒し、「見る
こと」という記憶の状態から非分離での「眺める」「観照している」という
高次の知覚、「第三の目・愛」の超知覚を得て、徐々に記憶である末
那識の呪縛から離れて行く意識状態。
4:超感覚的意識状態
記憶の反応である「主客の分離で見る」から、魂と繋がっている表面意
識の知覚である非分離状態で観照する、眺めるへと即ちサイコノエテ
ィック体の再形成が始まって、このサイコノエティック体の知覚が発生し
ている意識状態のこと。動物や生き物のみならず無生物との意思疎通
が出来る「同調」段階の意識状態。
私は肉体ではなく、思考や感情や記憶ではないとの知覚が発生している。
即ち超知覚が発生し同時に多くの場所から聴くことが出来、同時に多
くの場所から、見ることが出来たり、距離に関係なくあらゆる場所を見
ることが可能になる超知覚を自由に使えるようになる。分身やテレポテ
ーションなどができる・・賢者や聖人はこの段階であろうか。
5:超意識的意識状態
魂と繋がっている私達・現在のパーソナリティーが本来の私である魂との
繋がりを回復し、魂の大元である根源・全体・大生命とさらに繋がってい
る状態のことで最早意識とは言えない遍在、遍満・空の意識自身のこと。
「色即是空」の状態。愛と一つになっている状態。