人生の目的




人生の目的とは何か?何故私は今ここにこうして生きているのだろうか?


それは愛すること、

一切万物を愛すること、思考と行為に於いて万物に愛を与えることを実践することである。


キリストの「汝の敵を愛せよ」を実行する事である。


とくに私(記憶)を愛することである。


それが私達の生きている理由であり目的である。


私とは万物一切から生み出された記憶・マインドであるからである。

自分が自分の根源に戻ることであることだろう。私マインドが私スピリットに戻るのである。

(私達はボディー・頭脳+マインド・記憶+スピリット+根源から成り立っている)


では何故万物を愛せねばならないのであろうか?

それは万物を愛することによって私(マインド・記憶)は浄められ、私(本当の私)を知る事が出来るためである。


私(マインド・記憶)が私(スピリット+根源)を知ることができるためにこの現象三界は創られている。


私が私を愛し、許し許され、感謝することで、自己が浄化され、私から解放され、そして記憶から自由

になるためである。

(これを読んでいる私・・それはどの私なのか?・と思考している私は私を分割している記憶なのである)


「すべて万物一切を愛するため」・・その為にいま、ここに、こうして貴方も私もいる。


貴方も私も今現在、「全てを愛するため」に、ここにこうしてこのようにして生きている。

私達が現象界に生まれ、肉体や諸体を纏っている目的とは一切万物を愛すること、そして

それによって私(真の私)を生きる為である。


(久保栄治のように頭や知性で真理を知ることとは単なる思考記憶作用であり、実は自分は全く理解していないのだ。

ラマナ達の本を読んで、不二一元の真理を理解しているつもりでも、それは思考での情報として言葉の羅列に過ぎず

それを記憶していても万物との一体の実感もなく、アチューメントもなく、喜びや愛に溢れて、平安の中にいるのでもない。

実際は私とは記憶・自我と一体化している未発達な状態、真っ暗な状態なのに、自分は知っているのだ、体験しているの

だと高慢にも錯覚している記憶に過ぎない)



言葉や概念や情報や記憶ではない「至高の実在」と繋がる魂の本当の私を実現すること・・・その為に必須で必要なこととは

内側と外側の一切万物を愛することである。


そして、それによって聖なる恩寵により私が浄化されることである。




ここで非常に難しく錯覚に陥りやすいのは、自己実現した聖者や賢人やラマナ達の本を読んで、本を読んだこの私とは思考・

記憶であるのに、それを読んでいる私・記憶はそれを書いている賢者と同じように「行為は起こっている」「私は行為してい

ない」「全ては起こっている」などと超高次の意識状態の認識をこの記憶・思考の知覚である私が間違って勝手に思い込んでし

まうことなのである。記憶である私達には思考と行為しかなく、記憶である思考には如何に思考し、どのように行為するのか

が最重要なのに、記憶・思考・私が「私は行為していない」と勝手に思い込み、我が儘し放題で、自我丸出しの状態で、与え

られているこの人生に於いて愛と感謝のない未熟な思考と行為をまき散らし、誤解していること、錯覚していることに気が付

かないで人生を無駄に過ごしてしまっている。


私達はまったく自我丸出しのレベルであり、そのような自己実現した人からの観点である「私は行為していない」「総べては起こって

いる」と言っているのを聞いているのは記憶である自我という私であるのに「私は真我なのだ」と「ラマナ気取りで」「全てよし」など

記憶が勝手に思い込んでいる。実際には全く理解していないのにその様に語っている様を見るのは、非常に幼稚で悲しい、精神世界の

障害・・求道者達の現実=惨状である。

世界中の宗教戦争が終息しないのは、この私という記憶が知っている真理とは、まったく真理ではなくて単なる情報であり、言語であり

思考であり、記憶なのだ・・それは真理の誤解なのである・・と言う事実への認識がないためである。

私達が知っているのは真理ではなくて記憶であり、伝達可能な言葉や本などの知識に過ぎないということに気が付かないためである。

実際に私達に求められているのは私の浄化であり、私が清まることなのである。その為には最大の注意を払って思考し行為しなけれ

ばならない。そして何よりも大事なことは全てを愛すること、特に目の前のあなたとして現れているこの私自身・記憶である自我を

愛することだ。愛することによって、私・自我が根源へとクリーニングされるためである。


ミルダッドが言うように

「万物は私の中にあり、私の中に万物がある私」が本当の私であり

毎日の生活の中で自他に分割して葛藤の中で生きているこの私とは、私ではない記憶なのである。この私とは思考であり記憶なのだ。

この事を書いている久保栄治とは本当の私ではなくて記憶の反応である。だからこそ一瞬、一瞬毎に思考と行為に於いて記憶・マインド

が最善を尽くす必要が有るのである。


貴方と私に分裂し、内と外に分割して知覚し、思考し、行為し、肉体を私だと錯覚し、自他を分離知覚している記憶である私なのに

「我は真我だ」と思い込んでいるのは記憶であってスピリットの私ではない。記憶と一体になるのではなくて本当の私と一体になること。

その為には生まれ変わると言うことが必須である。生まれ変わるためには自他に分離していると実感している記憶がクリーニング

されスピリットである根源へと戻らねばならない。クリーニングされ戻る為にはまず自分であり記憶である万物を愛さねばならない。

(勿論、ここでのこの生まれ変わりとは輪廻転生や肉体の死のことではない、死による再生のことである)



だからこそその本当の自己を実現し、本当の自己を知るために日々の生活で思考と行為において最大の注意を払って

愛と感謝を実践することである。

賢者ではない私達、思考と記憶に一体化している私達に於いては、今ここでの思考と行為が最重要課題なのである。

日々常に悔悟し、懺悔し、許し、許され、すべてを愛し、すべてに感謝することである。


ヒューレン博士は言う

「キリストから言われている様に汝の敵を愛しなさい、この記憶・私・思考を愛しなさい」と


聖書には「愛せよさらば愛が与えられる」と書かれている。