自分を愛そう



私達は「自分を愛しなさい」、とはよくいわれていることだが、それは一体どういう意味なの

であろうか?

そのことについて考えてみたい・・


自分を愛するとは

これは起きていること、起こっている出来事に対して反応している記憶(私・自我)を愛

しなさいと言うことであろう。内と外に起こる全てを感謝して受け容れなさいと言うことである。



・・・この現在の意識的自己とは意識(鏡・空)に起こっている記憶(思考)であるからである。



その記憶が現在の意識的自己(自我・エレメンタル)というものの実態だからである。


すなわち憎んだり、悩んだり、願ったり、愛したりしている私・自己を愛しなさいと言うことである。

この「自分は思考であり記憶であるから思考なく見ることは出来ない」「私は愛ではない記憶だから

愛することなど出来ない」とそう言っている記憶を愛しなさいと言うことである。私達は記憶に

覆い包まれていても実際は真我と繋がる時空を超えた魂なのであるからだと。私達の表面意識は

これらの複合している混合状態にあり、それなのに記憶は意識の全てが記憶だと思っているのである。



私達は通常、DNAによって生まれる前から既に決まっている才能・障害・人種・国籍・境遇そ

して運命やカルマによって起こる出会いや出来事に対して反応している記憶と一体化している。

ここで重要なのは反応しているのは記憶であり私達である魂ではないということであろう。


私達・たましいは条件付けられている頭脳が生み出した記憶に従って反応を繰り返している記

憶と完全に一体化している。


それは肉体に入って条件づけられた脳に結びつけられているからである。



私達は思考ではなく未知なる透明な心、意識であるにも拘わらず、その潜在意識にある

思考(自我)・自分に覆われて記憶の思考を私だと思っていると。


・・記憶の反応・・それと私達・意識は一体化してしまっているというのだ。

自分が思考して、自分が選択して、自分が決断して、自分が悩み、自分が恐れ、自分が愛し、

自分が好悪し、自分が苦しみ、自分が行為したと錯覚しているがそれは記憶が反応しているのだと。



それゆえに、繰り返し「反応」(行為と思考)しているこの記憶に対して、御免なさい、

ありがとうございます、愛していますと唱えなさい。と教えられているのである。

その記憶に対して愛しています、ありがとうございますと言うこと・・それを実践しなさいと。

それが、キリストの「汝の敵を愛せよ」を実践しなさいということなのであると。






自分を愛するということはそれゆえに

目の前に現れている人・出来事とは自分を映し出している鏡であるが故に、その鏡に映っている

目の前に顕れた如何なる人も、良い人も悪い人も、その人の言うことにじっと耳を傾けなさい。

その人を愛し、その人から目を背けずに、非難や一体化したりせずに、その人の身になって、その

人と一緒になってその人を抱きしめ、その人に感謝し、その人に限りない愛を捧げなさい・・・という

ことであろう。


それはまた


目の前に現れている人とは自分を映し出しているのであり、その写し出されている自分を初めに

愛しなさいということ。即ちその他者として知覚されている自分自身を愛しなさいということ。

(目の前の人とは肉眼で見える人も、見えない人も含んでいる。)


それは又、意識という鏡に写し出されている記憶に対して記憶が行っている「自省」「反省」「自己

非難」「自己逃避」「自己改善」「自己超克」に対しても、それを行っているその自分自身(記憶)を

愛しなさいということであろう。


その心に写し出されている自分とは、自分の内面を凝視すれば明かであるように、憎んだり、愛

したり、恐れたり、執着したり、批判したり、嫉妬したり、高慢であったり、色々と考え悩み、質問し

たり、嫌がらせを受けて傷ついたり、尊大であったり、優越感や劣等感を持ったり、希望したり

絶望したり、暴力的であったり、利己的であったり、考えたり、満足したり、選択したりしている。

その私自身を優しくありがとうございます、愛していますと包み込み抱きしめなさい

・・・と言うことなのである。・・「類は友を呼ぶ」「類は類で集まる」からなのである。



ではここで思うことは、その記憶(自己・自我)を対象として観察し見つめているものとは、一体

誰だろうか?

それは記憶に他ならないことだろう。記憶は自分と世界、自分と他人に分割するからである。

見る者と見られるもの、個体と全体、私とあなたに分割するからである。

では更にその記憶が記憶を見ていることを見、自己と対象、自分と世界を分離分割することなく

ただただ観照し、「見るものは見られるものである」と見ているのは誰であろうか?

それは記憶ではない、未知なる自他の分離の無い意識であり、透明なる心・鏡であることだろう。





そういうことであるので、まずはじめの一歩として

私達は鏡に映った自分(他者)が如何なる自分(他人・万物)であったとしても、

心に写し出されている私(記憶)にありがとうございますと感謝し、愛を捧げること、即ち

自分を捧げること。

その心(意識・空)に写し出されている「記憶である私」(自他・万物一切)を愛すること

が出発点なのではないだろうか。



起こっている内と外の総べての出来事に対してつべこべ言わずにただただ感謝し、「あ

りがとうございます。愛しているよ」と唱えることが最初の私達の勤めであり出発点なの

であろう。