私は人類
私とは人類なのではないでしょうか?
私は個人ではなくて全人類であると云うことです。
人類は同じ内臓組織、同じ知覚器官、同じ構造の頭脳組織、全く同じ知覚と認識なのです。
そして他の生物と同じように私は他とは別の存在で分離している・・と同じように錯覚しています。
色んな意味でこの「私は人類」を捉えることが可能ですが、今回はこの「私は人類」と言う言葉を
以下の様に捉えてみたいです。
私という実感は万人が、否おそらく生きとし生けるものは全てが「私という意志」を持っている
ことでありましょうから、この場合の「私は人類」と言うのは、この個人人格の私というのは
生きとし生けるものが実感している私と同じ私だと言うことであります。
全人類が同じように「私とは他者と分離・対立している個人だ」「私は個人であって他人とは
異なっている別の存在」「私は他者ではない」と自分のことを思っているわけです。
しかしながら、この私という実体は、肉体や脳や行為や思考や知覚や意識がそうであるように
この個人の分離感とは大自然の営みの中で起こされている結果であるものであり、私個人とは大
自然を構成している一部なのであり、私個人とは大自然のものです。
その「私・個人」の感覚はそれぞれの個体に付与されている感覚であって、個人の特性や
個別性とは大生命、大自然によって与えられたプレゼントなのです。であるのに「私・個人」は
私の個人特性だと真逆に捉えております。
脳科学的に考えればその私・個人という実体感覚は、大生命によって創造され機能している
脳(質料)によって引き起こされ生じている記憶の反応であると言うことでありましょうか。
以上の観点から私ということを考えてみると、この個人の私というものは、出産から、成長、老化、
死亡までを含めて、人類全ての肉体というものがそうであるように大自然の営みが引き起こしている
結果であることがハッキリしてまいります。
肉体及び脳とは勿論、全人類で全く同じであり、それは大自然によって創造されている結果であるもの
です。大自然が個人私を使って生きておられるのです。このマインド・霊的諸体を使って大自然という
神聖なる存在が生きて行為されているのです。
この「久保栄治という個人」は他のこれを読んで下さっているあなたと全く同じように、大自然が生み出し
た大自然のものであり、大自然がコントロールしている肉体及び脳の結果として生み出された記憶
なのではありませんか。
記憶が私として内部と外部に対して反応を起こしており、それを思考は私・自分だと錯覚しております。
私は大自然そのものなのに、その正反対に思考に占有された人類は大自然は自分のものだと錯覚し
ているのです。
そしてその錯覚は大自然が大自然を維持するために起こして使っているものでありましょう。
実際には肉体も個人も、その個人である私も大自然の一部であり、大自然が生存して維持していくた
めに、闘い、競争し、恋し、悩み、恐れて、憎んで、悲しみ、苦しみ、結婚し、こどもを産み、仕事をして、
目標を持って何かを成し遂げているわけです。輪廻転生しているわけです。
重要なことは、その行為と意識を使って生きているのは大自然であり、大自然が「私個人」を使って行為し、
意志し、思考し、意識して、生きて転生しておられるのであって、その結果である私という個人が生きてい
るわけではないということであります。
ここで大自然のことを神と言って良ければ、神があらゆる生き物として、あらゆる万物として、私達総べての
人類の個人を媒体にして御自ら生きておられるわけです。
丁度それは私達とはPCのゲームの中の登場人物のように、その登場人物の私が自分が誕生し、成長し、
知覚し、意識し、行為しているのだと思い込んでいるようなものでありましょう。
私達は大自然というゲームの中の登場人物なのでありましょう。
神が私達・個人自我を使って生きておられます。私個人は存在していないのでありましょう。
ですので
私達とは大自然の一部であり、私達が生きているわけでも、自由意志で意志しているのでもなく、自分の
力で知覚し、認識し、意識しているわけでもありません。意識はその神が創造して使っておられるのです
から私達が自分の力で肉体や意識を使って行為し、生きているのではありません。
以上の観点からこの「私は人類」と言う言葉の意味を考えたとき
生きとし生けるものの私は、この久保栄治という個人の私と同じく虚構であり、実体のないものであり
「実体的には存在していない観念」であるといえましょう。私達個人の実体は大自然であり、大生命
であり、全体である神なのでありましょう。錯覚である私達個人(記憶)は神の演技なのでありましょう。
ですから私は毎朝、洗面台に立つ私の事を礼拝し、感謝を捧げております。この肉体を、又この肉体
を私だと錯覚している「自我の私・記憶の私」を使役しておられる大生命に礼拝し感謝しております。
この私自我を使って神が演じられているからです。
神の演技であるこの私は、毎朝「鏡に映る自分」を礼拝すると同時に、祈られている神の宮であ
る「この肉体」、そして肉体を私だと思っている私・記憶、・・悩み、苦しみ、競争心と、利己心に溢
れ、欲望にそそられ、考えるこの自我の私に対しても手を合わせ愛し、感謝し、礼拝しております。
自分自身(すべての人類と万物)を愛することが始まりなのではないでしょうか。
現象と実相を礼拝し愛することがスタートなのではないでしょうか?
く