合わせ鏡
神道の黒住宗忠が分かり易く説いているように、私達とは合わせ鏡なのでありましょう。
そのことを黒住宗忠は分かり易く平明な言葉で説明しておられます。
「立ち向かう人の心は鏡なり 己が姿を映してやみん」と教えておられます。
私達は思考や記憶という己ではなくて、それらが写し出されている神聖なる鏡なのだと。
神聖なる鏡が私達なのだと。ただこの鏡である私達とは未だ眠っているのです。
ですので、今現在のこの現在意識とは鏡の意識でもなく私達でもありません。
私達は思考を写し出している鏡であり、スクリーンであり、意識の座であり、空なのであると。
私達はお互いに純粋で透明な合わせ鏡なのであるけれども、その鏡は「私・己おのれ」(記憶)
に覆われてしまっているので
その合わせ鏡に映し出されている「私・己」の姿(記憶の姿)を、毎朝鏡に映る顔を見るのと
同じように、目の前の相手の鏡(心)に映っている記憶(私だと主張している己)の姿をす
みからすみまでハッキリと見なさいといわれているのであります。
今私達が自分だと信じて疑わないこの私、この読み書きし、考え、祈り、願い、毎日働いているこの私
自分自身とは、実は全く私自身ではなくて、私を覆い包んでいる記憶であると言うことなの
であります。この意識と思っているものは意識ではなくて思考であり、記憶の反応なのですと。
だからこそ私を詐称している「己」の姿(記憶の姿)を自己観察しなさいと。
「未知であり私達である鏡」を覆い隠している「己」の姿(記憶の姿)を目の前の相手という鏡の
表面に写して「己」(記憶)が、「己」の姿(記憶の姿)をみているのですと。
記憶が主客に分割して観察している、その記憶の姿をじっと静かに観察しなさいと教えておられます。
自己観察とは記憶が記憶のことを観察するのであって、鏡が自己観察するのではありません。
鏡は観察している観察者を観照しており、自己観察しているところの観察者である記憶にはその
観察者を観照している鏡の意識は知覚認識できないのです。記憶である己には己を観照
している、たましい・鏡の意識は知覚認識できないのです。
私達は鏡であり、この鏡に写し出されている己・記憶ではありません。この鏡を覆っている己
が消えたとき、鏡には神聖なる太陽が輝き出すのでしょう。(※天の岩戸開き)
自己観察しているのは記憶であり、自分を知覚し、他人を知覚しているのは記憶なのです。
記憶が相手の鏡に映っている自己(記憶)の自己観察を行っているのであります。
しかしながら記憶が記憶の姿を自己認識出来るのは鏡・意識があるからなのです。
合わせ鏡であるからこそ、自我が合わせ鏡に映る自我を知覚できるわけなのであります。
私達はお互いに、この神聖で透明で無垢で純粋な意識=「鏡」なのであるから、この鏡を
覆っている「自分が私だ」と主張している記憶(己・私)のことを記憶自身が記憶である自己を
観察しなさいと。
私達は鏡であり、私とは純粋で透明なる鏡(意識)であり、同じく目の前の相手も意識そのもの
なのであって、決して思考や記憶ではないのであり、純粋で透明なる鏡であるのだけれども
私達である鏡は「己・私という記憶」によって覆われてしまっているので、現在の意識とは意識で
はなくて記憶の反応なのです。
その私達を覆い尽くしている「己・私という記憶」というものを相手の鏡に移して、記憶という
自分のことを私だと偽って思い込んでいる「己・私という記憶」の姿を記憶自身がハッキリと見なさいと。
その記憶という己・私にとっては未知である「私達自身である鏡」のことを覆い包んでいる
「己・私という記憶」を相手の鏡に移して、記憶が記憶を自己観察しなさいと。
実はその記憶による自己観察そのものが記憶ではない意識の働きであるからですと。
その記憶というものがどのように思い、思考し、感じ、判断し、行為し、相手だと思い込んでいる自分
を憎悪し、自己観察されている自分から逃れようとしているのか、即ち観察している自分が自分から
逃げようとしているということ、この記憶とは個人のものではなく全人類なのにその記憶は自分を個
人だと思っていること、記憶は眠っている鏡がうみだしたもので記憶の責任は鏡にある・・等々。
それらの記憶である己の姿をハッキリと直視することが、その「己・私という記憶」からの解放に繋がっ
ていくのだと教えておられます。
この点をヒューレン博士は記憶の場所を三層に別れているたましいである潜在意識の中に位置していると
説明しております。