言語と想念
各国によって異なる言語と、各国で同じ共通の想念と、その想念の基底にある意識
について推測してみたい。
一口に言語と言った場合、その各国で異なっている言語とは何を指しているのか?
それは脳によって生じている言語化されている想念のことを指していることだろう。
人類は同一の想念をベースにし、共有しているのでそれぞれの国で言語は異なって
はいても、同じ共通の想念を基盤にしているので人類全員の意思の疎通が成り立
ちその想念をそれぞれの国の言語に翻訳すると言うことが行われているのである。
それゆえに、世界各国で、言語は異なっても想念は同じであるので、世界各国の人は
交流することも可能であるし、お互いに争い戦争をすることさえも出来るのである。
動物に関して言えば、動物は言語(大脳言語中枢)は持たないのであるけれども独特の
想念があるので人間ともある程度の交流を行うことが出来るのだろう。
ヒューレン博士はこの言語と言われているものの基底に有る想念のことを記憶と称し
ているように思われる。
言語中枢、又は思考中枢は脳にあり、肉体の死後は脳がなくなって言語は使用することが
出来なくなっていても想念の主体は記憶であるから、肉体の脳から離脱しても記憶と言う
想念は「分離と二元」の意識状態が死後も続いていくことであろう。
この記憶である想念こそが「私という想念」であり私達である「鏡」を覆い尽くしている。
ここでヒューレン博士が薦める「ありがとうございます」「愛しています」はこの分類方式から
見た場合、一見すると言語であり、想念の形式をとっているように思われるのだけれども
それは想念ではなく、想念を成り立たせているもの・・・たましいから来ている言霊である
と言われている。
この言霊・・それは意識(鏡)であり、言語や想念の基底に存在しているところのものである。
それは頭脳に依拠せず、想念で構成されていると思われる霊的諸体(記憶で構成されて
いる)にも依拠しない、より根源的、根底的な意識のことであり、それはたましいである「超
意識」状態、から生じているのではないか・・と思われる。
この「ありがとうございます、愛している」は神道における祝詞でもあり、仏教に於ける、
お題目でもあり、キリスト教に於ける祈りでもあるのではないか。
この「ありがとうございます、愛している」は言語や想念を支えている意識という言霊
であることだからこそ、この「ありがとうございます愛している」との祝詞は想念と言語
の領域に影響を与えることであろう。
このたましい・意識から生じている言霊を、さらに支えていると思われるのが
聖書でヨハネが示している神の原初のことばであろうか。
「はじめに言あり、言は神なりき、この言は大初に神と共にあり
万のもの、これによりてなり、なりたるものに一つとしてこれによらで成りたるはなし、
之れにいのちあり、このいのちは人の光なり」」と。
・・この神の言葉とは 「 I AM THAT I AM 」であることだろう。
この意識という言霊をさらに支えている根源である「ことばは神なり」のことは、
言語(大脳)や想念(記憶)によっては、それを知覚認識することは出来ない。
この「 I AM THAT I AM 」は意識それ自身を支えている根底であるので、思考
や想念という結果であるものは自分自身の原因を知ることはできないことであろう。
言語(記憶の反応の思考のこと、条件付けられている脳を介し記憶になる)は
想念(より精妙なる質料)から生じ、
想念(記憶)は意識(たましい)から生じ、
意識(たましい)は「神の言」から生じている
・・ということなのであろうか。
之れを逆に言えば
言語は想念が支えており
想念は意識が支えており
意識は「神の言」が支えている
・・・と言うことであろうか。
これらの関係性があるからこそ、ヒューレン博士は「愛している、ありがとうございます」と
思考や想念レベルで言霊を唱えることであっても、その言霊は意識と合体し
さらに意識から意識の源泉である「神の言・神聖なる実在」に届けられると説いているように
思われるのである。