誰が見ているのだろうか





思考し見ているのは誰なのだろうか?・・・について考えてみた。

自分の考えを述べる前に、私の意識の段階を説明したいと思う。

思うに私は意識の5段階のうちの3番目の「意識的意識状態」に到達していないので

下から2番目の「潜在意識的意識状態」にあると思われる。

何故ならば、現段階の私とは

起こっている出来事(カルマ・運命・プログラムによる出来事・行為・思考)に対して反応し

ている記憶(散在意識)でしかなく、それに同一化している「たましいからの私」というところの

意識(意識的意識状態)が自覚されていない段階、即ち記憶の反応である潜在意識的意識状態

であるからである。私は記憶の反応の中で生きており、まだ意識を知らないということである。



ヒューレン博士の意見を参考にして以下のことを考えてみた。


誰が自分を私だと思っているのか?それは私の中の記憶である。

誰が見ているのか?見ているものは、それは私の中の記憶である。

誰が目の前の他者を見て良いとか悪いとか評価判断をしているのか?
 
  それは私の中の記憶であり、その目の前の他者とは記憶である自分自身の姿である。

誰が考えているのか?考えているものは、それは私の中の記憶である。

誰が思っているのか?思っているものは、それは私の中の記憶である。

誰が信仰しているのか?信じ祈っているものは、それは私の中の記憶である。

誰が感じているのか?感じているものは、それは私の中の記憶である。

誰が欲望しているのか?欲望し欲し願っているものは、それは私の中の記憶である。

誰が求めているのか?求め希求しているものは、それは私の中の記憶である。

誰が将来を考え、病気になることを恐れ、不安を抱いているのか?それは私の中にある記憶である。

誰が苦しんでいるのか?苦しんでいるものは、それは私の中の記憶である。

誰が悩んでいるのか?悩んでいるものは、それは私の中の記憶である。

誰が相手と話しているのか?相手と話しているものは、それは私の中の記憶である。

誰が喜び悲しんでいるのか?喜怒哀楽し喜び悲しんでいるものは、それは私の中の記憶である。

誰が聴いているのか?聞いているものは、それは私の中の記憶である。

誰が歩いているのか?歩いているものは、それは私の中の記憶である。

誰が行為しているのか?行為しているものは、それは私の中の記憶である。

誰が仕事をしているのか?仕事をして働いているのは、それは私の中の記憶である。

誰が車を運転しているのか?車を運転しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が恐怖に戦いているのか?恐怖に戦いているものは、それは私の中の記憶である。

誰が知覚し認識しているのか?知覚認識しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が不安を感じているのか?不安を感じているものは、それは私の中の記憶である。

誰が自分が無視され、侮辱され、競争心、自尊心が傷ついたと感じているのか?それは私の中の記憶である。

誰がプライドが傷つけられて悲しい悔しいと思い、劣等感や優越感を味わっているのか?それは私の中にある記憶である。

誰がイライラしているのか?イライラしているのは、それは私の中の記憶である。

誰が怒っているのか?怒っているのは、それは私の中の記憶である。

誰が判断し、批評しているのか?判断し批評しているものは、それは私の中の記憶である。

誰が学び記憶しているのか?学校や人生で学び記憶しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が選択しているのか?選択しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が意志を持っているのか?意志を持ち行使しているのは、それは記憶である。

誰が自由意志で決定しているのか?自由意志で決定しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が瞑想していると思っているのか?瞑想しているとおもっているのは、それは私の中の記憶である。

誰が人から良く思われ慕われて尊敬されたいと思っているのか?それは私の中の記憶である。

誰が絶望しているのか?絶望しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が質問しているのか?質問しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が常に人の目を気にし、人と競争し、自己関心に溢れているのか?それは私の中の記憶である。

誰が目標を立てて計画し努力し、一番になろうとし人と競争しているのか?それは私の中の記憶である。

誰が理念と目的を持ち自己実現しようとしているのか?それは自分は私だと錯覚する私の中の記憶である。

誰が私は自分だと固く実感しているのか?自己を自分自身だと錯覚しているのはそれは私の中の記憶である。

誰が多くの人から愛されることを求めているのか?愛されることを求めているのは、それは私の中の記憶である。

誰が真理や神を求め思索しているのか?真理や神を求め思索しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が世界を見ているのか?世界を対象として見ているものは、それは私の中の記憶である。

誰が治療や癒しとは神がしているのに自分が治療し人々を癒やしていると錯覚しているのか?それは私の中の記憶である。

誰が自分の心を観察しているのか?自分を対象として観察しているものは、それは私の中の記憶である。

誰が他者を自分ではないと錯覚しているのか?自分は他者とは異なると錯覚しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が私という自己意識、他者を知覚認識する私という実感を持っているのか?それは私の中の記憶である。

誰が自分は個人であり「他人とは異なる私」なのだと認識しているのか?それは私の中にある記憶である。

誰が自分に執着しているのか?自分に執着し、自分に縛られているのはそれは私の中にある記憶である。

誰が自分は肉体であると錯覚しているのか?自分を肉体と一体化しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が自分は死ぬと思っているのか?自分が死ぬと思い怖れているもの、それは肉体と一体化してしまっている私の中の記憶である。

誰が出来事を自分が起こしていると錯覚しているのか?出来事を自分が起こしていると錯覚しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が自分が生きていると錯覚しているのか?自分が生きていると錯覚しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が(愛は神がしているのに)自分が愛していると錯覚しているのか?自分が愛していると錯覚しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が(この人生は神の演技であるのに)私の人生で私が生きている、この人生の主役は私だと錯覚しているのか?それは私の中の記憶である。

誰が私達は一つなのに個人で分離していると錯覚しているのか?私達は個人だと錯覚しているのは、それは私の中の記憶である。

誰が私達は万物と一つであり一体であるのに、私は万物と分離していると錯覚しているのか?それは私の中の記憶である。

誰が私は神の演技であるのに私は個人であり、私が生きていると実感しているのか?それは私の中の記憶である。

誰がこの私は神が生きているのに、自分が生きて、自分は生かされていると錯覚しているのか?それは私の中の記憶である。



そして、この日記を書いている私こそ記憶なのです。



記憶が起こっている出来事(カルマ・運命・身体・衝動・行為・思考感情)に対して条件反応を繰り返しているのである。


記憶が自分は私だと思っており、私を詐称しているのである。自らの記憶の条件反応を私の反応だと錯覚しているのである。

記憶とは個人のものではなくて、私の潜在意識の中にある全人類全ての私の過去の全記憶である!

私は私の潜在意識にある記憶と一体化してしまっているのである!!記憶の責任は私にある!

私は私の中の記憶ではない!私は私であり、私とは意識であり、その意識は限りなく拡がっている!

私は万物とひとつであり分離していないのである!!



と、ヒューレン博士は言っているのではないか。

また、ヒューレン博士はその記憶を愛し、感謝しなさいと言っているのである。聖なる実在にお願いしてその記憶を空に戻して

もらうようにしなさいと言っているのである。