祈り・全託するということ






見返りや結果や願望成就を期待して祈り・全託することは祈り・全託ではなくて

・・それは商取引でありましょう。

祈り・全託という手段を通じて自分が欲する「高価な結果」を得ようとしているのは祈り・全託で

はなくて商売であり、その商売をしているのは自己自我でありましょう。


自分の利益や見返りを期待して祈り・全託しているのは自我であり、それに応答し答えている

ものは自我と同じ「強大なる自我」という「自我が崇拝している神」であり、その自我が祈るとき

私・自我は祈り・全託していないのであり、私・自我は「わたしは神に祈って全託している」と

錯覚しているのに過ぎないことでありましょう。


では祈り・全託することとは何でありましょうか?

私達は誰に祈り、誰に全託するのでありましょうか?それは勿論、神へであります。

では神とは何でありましょうか?それは神とは「愛」であると教えられております。


神とは私達自我の欲望が投影している「欲望を叶えるもの」ではなくて「愛」でありましょう。

ゆえに祈り・全託するとは「愛」に祈り、「愛」に全託することであります。



では「愛」に祈り、「愛」に全託すると言うことはどういうことでありましょうか?

それは「愛」に対して身を投げ出し、「愛」へと全てを捧げることでありましょう。



自分自身のことを記憶と自我と、たましいに分割しているのは記憶であり、実際には

私自己とは、それらの全てを包含しており、ここからが記憶で、ここからが魂からの私だと

明確に区別すること自体が記憶が行っており、自己とは最低から最高までの全てを含む

坩堝であり、自我から真我までを含むのが自己全体であり、この複合している自分を

高次の自己と、低次の自己に分割しているものこそ記憶であることでありましょう。


さて、では、その神である「愛」へ身を捧げると言うことはどういうことでありましょうか?

それは自分・自我が「愛」へと身を捧げ、「愛」へと歩み出し「愛」を行うこと事でありましょう。


「愛」へと歩むとは、この私自我が自己自我自身を愛すると言うことでありましょう。


自分自身に対して思考がするような「自分を低次と高次に分割・分離」せず、「自分を

自己と他己に分離」しないで、あらゆる私自身を愛すると言うこと。

自分が目にしている「相手という自分」を判断している自分(相手)自身を愛すること。

自分が目にする「自分自身である万物」を愛すると言うこと。

万物と分割できない私が、万物である私を愛することなのでありましょう。


それは即ち、自分自身を愛することとは、自我である自分が、自我である自分自身、即ち

目にする一切の万物を愛することであり、それこそが神に帰依することなのでありましょう。

それこそが本当の祈りであり、全託し帰依することであるということでありましょう。



自我が見る自我の私自身、「相手という自分自身」、この目の前に顕れている相手、自分

自我が知覚し、認識する万物を愛することが即ち祈り全託するということでありましょう。


自分自身を愛すると言うこと・・「私はわたしを愛しているよ、と唱えること」それが私が神

へと戻ること、即ち自我の終焉へと繋がっていくことでありましょう。


実は自分自身とは万物lなのでありましょうから・・・自分が万物である内側と外側を愛する

ことが、思考がクリーニングされること、記憶が「目から鱗が剥がれていく」ことでありましょう。


万物である私自身へ「愛しているよ」と唱えることが・・

万物を見ている「この目」が浄化され、清まり、思考が脱落していき、思考に汚染されるこ

となく正しく見ることが出来るようになっていく・・「自己脱落」と言うことでありましょう。




愛とは愛があるから愛するのではなく、愛は愛することで与えられていくのでありましょう。



愛のない私が、私自身を愛することで愛が与えられる。

万物を愛することが出来る様になっていくのだと・・・。


即ち、鏡から汚れ(記憶・分離・分割)が取り除かれていくことで、光を反射すること

が出来る様になっていくことでなのでありましょう。



それはまた、海から生まれた塩人形は、海にやってきて、海に触れることによって

海へと溶け始め、海と一つになって海に戻っていく・・・ということでもありましょう。