質問を止めよ


質問を止めよ、思考を止めよ


昨夜、ホ・オポノポノのヒューレン博士のビデオを見ていたら

ヒューレン博士は来場者の質問をしている人に対して「質問を止めなさい!

その質問している間はクリーニングがストップしている」
と仰っておられた。

質問を止めて、その質問をクリーニングしなさいと言われていた。

(クリーニングとは「愛しています、感謝しています」と唱えることで記憶を

除去してもらうように聖なる存在にお願いすること、神道の「祓い給え」である)



質問をしている間は、私達は記憶と同一化しているので、質問することとはクリーニングを

中断していることになるからであろう。


考えて思索している間は私達は記憶に占領されていることに気が付かないのである。

(記憶に気が付けば思えることや話すことや質問することは記憶がしていることが解る

ので自ずと質問することから離れるだろう)

その質問や思索することとは記憶から出ているので、当然記憶が納得し与えられる

答えとは、理解ではなくて誤解であり、記憶が満足している思考の錯覚であることだ

ろうから、

ヒューレン博士はその質問すること即ち記憶=思考の動きを止めて、その思考を

クリーニングしなさいと教えていたのである。



私達は常に記憶に支配されているので、記憶の知ることや理解することや回答や至

ることを求めることに同一化しているので、記憶が考え思索していることに気が付かない。


その記憶が知ることや思索することで得た回答や自己実現とは記憶が為す錯覚であり

虚偽であり誤解であり、それは「真の私」から離れること、「真の私」を否定してしまう

こととなるのであろうに。


ヒューレン博士が言うように、答えを求め、思索し、考え、質問しているその私こそが

「真の私」ではない記憶であるからだろう。またその記憶が獲る知識や自己実現とは

記憶により深く覆われてしまうことであり、「真の私」から離れていくことだろう。


記憶は「無知」なので、常に答えを求めており、その記憶が理解する回答の中身、即ち

記憶が知覚するその内容も、答えも、又記憶が納得する体験や認識も、記憶が満足し

ている虚偽(記憶)に過ぎないということだろう。




私にはこの事に関してそれ以上は理解することが出来ない。この現在の私達の

現在意識とは、たましいからの意識ではなくて、たましいからの意識が同一化してし

まった記憶の反応=思考であるからである。


現在の記憶と全く一体化してしまっている私達には、記憶しか分からず

思考という誤解しか分からない・・・記憶から離れることだ。記憶との同一化から離れ

ることだ。


しかし私達たましいと繋がる表面意識には信じること、想像すること、唱えることだけ

なら出来るのである。ミルダッドの言うように高度の知性は知性に裏付けられた正し

い「信念」「想像力」へと発展していくであろうから。


それ故にヒューレン博士の言うように「内奥の聖なる存在」に対して「御免なさい

許して下さい、愛しています、有り難うございます」と記憶のクリーニング、浄化

「お祓い」を祈願することは、記憶が脱落していくことであり、正当であり非常に

重要なのである。


では


クリーニング(感謝し愛すべき)する記憶の特徴とは

■記憶は私達の潜在意識にあって、知覚と意識と認識と行為を支配して常に思考している。

■私達とはたましいからなる意識であって潜在意識にある記憶・思考ではないと教えられている。

■私達とは「聖なる実在」に繋がっている表面意識、潜在意識、超意識の三層からなる「たましい」であって

 「潜在意識にある記憶」ではない。従ってその記憶の反応である思考や感情や意志や肉体の脳の状態や

 機能ではないと教えられているし、久保栄治はそれを固く信じている。

■記憶は肉体と深く一体化しているので頭脳や五感や五感その行為を自分自身だと思っている。

■記憶は自分は個人であり、自分自身だと実感してるので自分と他者は別存在で異なっていると錯覚している。

■記憶はこの思考は起こっていること(聖なるマーヤ)の結果であるのに自分が思考していると思っている。

■記憶は無知であるのに自分は知る事が出来ると思っている、自分は真理を知り、徐々に進化して神と一体に

 なることが出来ると思って努力している(記憶の自分がいないときそこに叡智と理解があるというのに・・)。

■記憶は自分が修業や瞑想や努力によって自己実現に至ることが出来ると思っている。(自分がいないとき

 自己実現が顕れるのに・・)

■記憶は自分が進化して、いつか真我と一つになり、究極の悟りを獲ることが出来ると思っている。

■記憶は自分と他者は別であって、自分が認識している他者とは自分を映している自分の姿なのではな

  く、他者とは自己は異なると実感し、他者を軽蔑し非難し、世界は私ではないと実感している。

■記憶は自己を裁き、他者を裁き非難し、全てを対象として知覚し判断し、且つ自分自身から逃避している。

■記憶は世界・外部は内部であるのに外部・世界は内部(記憶)ではない「私は世界ではない」と実感している。

■記憶は潜在意識にある人類同一の記憶なのに私は個人、人格であるから、全人類ではないと錯覚している。

■記憶は自己を分割し、自分は他者ではなく、人類ではないので、他の人の責任は自分の責任で

 はないと思っている。他人の犯したことは自分の責任ではないと思っている。

■記憶は自分自身を対象化して、自分が見ている心の内部(実は自分自身の姿)を軽蔑し、非難し、評価し

 逃避したりしており、自分が内部を知覚し観察しているのに〈観察対象の私〉は観察している私ではない

 と錯覚している。

■記憶とは起こっている事の結果であるのに、自分が出来事を起こし、参加し、変えることが出来ると

 思っている。出来事とは根源によって起こっているのに自分が行為し思考していると錯覚している。

 (根源が記憶である自我を使って思考し行為し現象世界を生きておられる)

■記憶は出来事や行為は起こっていることであるのに記憶は自分が出来事を起こし、自分が

 行為していると思っている。出来事を起こしているのは根源であり根源が記憶を使役している。

■記憶は周りに起こること、私達が知覚する搾取や殺戮や悲しみや暴力は全て自分に責任が

 あるのに、(記憶の姿であるのに)記憶は身の回りや世界に起こっている事は自分に関係が

 無いと思っている。