虚偽の考察


この「久保栄治のホームページ」では虚偽と言う言葉が頻繁に使われているのでその言葉の意味を

自分なりに定義し説明してみたい。


虚偽とは何のことだろうか?


■虚偽とは、真実がなければ虚偽とは言えず、虚偽とは真実を前提としているので、虚偽があるこ
  と自体が真実があることを示しており、虚偽を虚偽と見ていることの中では既に真実が内包し
  措定されている。



■逆説的には真実がある為には虚偽を必要とする。真実と虚偽は裏表であり真実と虚偽は一つである。



■光は闇がなければ、光とは言えず、光は闇を前提とし、闇は光が顕れたときには消えて存在していない。
 光の中には闇は存在することが出来ない。神が光と闇を創造されたのであろう。



■不二一元とは愛であり、愛は正反対の二元・分離分割、即ち見る者と見られるものという虚偽を必要と
  している。
  愛は、「私とあなたという錯覚、内部と外部の分離分割という虚偽」を必要としている。「真我と自我という
  分離の虚偽」を必要としている。「私とは思考である」とは、たましいの私にとっては虚偽、記憶にとっては
  真実。「私は万物である」とは記憶にとっても、たましいの私にとっても真実。 



■闇と同じように愛が顕れたときには恐怖や不安や競争はなく、自己もなく、愛があるとき愛ではない二
 元・分離分割、見る者と見られるもの、私とあなたという分離分割は消滅し、自他の分離は存在していな
 いことだろう。



■虚偽・二元とはそれはPCのバーチャルのゲームの中のように記憶の仮想空間、仮想現実の中にのみ存
 在している、記憶の中にのみ虚偽、二元が知覚されている。その分離とは光が現るとき存在していない
 闇のようなものであることだろう。



■虚偽とは嘘でもあり、その嘘とは条件付けられている脳が生み出している思考の記憶であることだろう。
  虚偽とは記憶の知覚と認識そしてそれが行う行為であり、嘘・偽りがあるがゆえに真実は厳然としてある
  ことだろう。



■虚偽とは記憶であり、記憶とは思考であり、思考とは個人、人格、分離している私のこと、「私が生きている」
 「私の肉体」だ、「自分が思考し自分が行為している」と錯覚している私のことであり、その記憶が起こっている
 出来事に反応して行動し考え、個人として生活し、生き続けている。家庭や職場や社会で「私・私自身」として
 生き続けているのはこの記憶である。



■真実は、万物は神であり、肉体も脳も知覚も認識も思考も、そして記憶も神がそれらを使って生きておられ
  るのに、神によって生み出されている思考・記憶は「私は個人であり、私が思考し、私が行為し、私が自由
  意志で生きている」と錯覚している。ここに生きておられる私達とは神の演技であるといえる。


■バスに乗り、テレビを見、仕事をして、起こっている出来事に反応し一喜一憂して行為しているのはこの記
 憶であり、この記憶を使って生きておられるのは神であり、そして、たましいの私はそれを観照しているのだ
 ろうか?