虚偽を見ているのは誰か?




虚偽即ち自我を私の中や相手の中に見ているのは誰でしょうか?

誰が虚偽を虚偽として見ているのでしょうか?

不安や恐怖や欲望や暴力を自分や相手の中に認識しているのは誰でしょうか?

自分や相手の中に悪を悪として知覚しているのは誰でしょうか?

憎悪し、高慢になり、批判し、競争し、自己実現し、悟りを得ようとしているのは誰でしょうか?

世界に虐殺、殺戮と苦しみと悲しみを見て「神がいるならば何故!!?」と嘆いているのは誰でしょうか?

虚偽(マーヤ)を虚偽(マーヤ)と見ているのは誰でしょうか?どの私でしょうか?



昨日、このことで友人と話しました。


Kさん:久保さん、あなたは自分は愛していると思っているかも知れないけれども
    実際には「あなたには愛が無い」ことにあなたは気が付いていませんね。

久保:そうでしょうか?
    今度は私からKさんにお伺いしますが、
    「相手とは自我であり、相手には愛が無い」「相手は虚偽である」ということを
    誰が知覚して認識しているのですか?

    あなたの相手である久保には愛が無いと言うことを誰が知覚して認識しているのですか?
    Kさんへ今度は逆にお伺いしますけれども
    「あなたには愛が無い」とおもっているKさんこそ
    自分の内部の姿を他者である私に投影して記憶である自分自身の姿を知覚し認識している
    のではありませんか?
    相手の中に自我や悪を見ているのはあなたの中の記憶なのではありませんか?
    記憶が記憶を内部と外部に投影して記憶が記憶自身を知覚認識しているのです。
  
    相手の中に悪を見、相手の自我を知覚し、相手には愛が無いことを見、相手を
    判断し非難しているそのあなたとは、あなたを覆っている思考であり、その記憶の
    反応があなたの中で働いて、その様に記憶が自分(相手)のことを知覚認識して
    いるのではありませんか?

    ですからKさんが見ている久保栄治の姿とはあなたの記憶自身の姿であり
    そのあなたとは、あなたではなくてあなたを覆っている記憶の反応、即ち思考なのでは
    ありませんか?

    思考が思考自身の姿を相手であるこの私(鏡)の上に投影して記憶自身を見ているのです。
    「久保栄治とは自我(エゴ)そのものであり、愛が無いのに、愛している等と虚偽に
    陥っている」と思っているは記憶です。
    Kさんが見ているのはKさんの記憶であり、その記憶の姿であることでしょう。
    その記憶とはKさんが「私という観念」と同一化することによって生み出したのであり
    Kさんにはその記憶の責任があり、Kさんはその記憶に愛を捧げるべきなのではないでしょうか?


Kさん:う~ん・・。
    しかし私は虚偽を見ており、その虚偽を虚偽と見ているのは真実であり正しいこと
    なのではありませんかね。

久保:そうでしょうか
    Kさんは「虚偽を見ているのは記憶であり、記憶はその記憶自体を見ていない」ということ
    に気が付いていません。
    「虚偽を見ている観察者とは記憶の反応」であり、その自分自身である記憶の姿を見て
    いないのです。
    虚偽を虚偽と見ているのは虚偽であり、
    その虚偽(観察者)を見ているものに気づいているのはたましいなのではありませんか?

    記憶である観察者が観察者を内部と外部に分割し投影して記憶自身の姿を見ているのです。

    その虚偽(自我)を知覚し自我を見ている観察者とは記憶という思考であり、自我であ
    りましょう。
    ですからKさんが見ている久保栄治とはあなた自身の記憶なのです。
     
    Kさん、あなたは虚偽を虚偽と見ているのは虚偽ではないと思っているでしょうが
    それは記憶が思っている自惚れです。

    自分や相手の中に虚偽(自我)である「善悪」や「愛のないこと」を見ている観察者こそその
    虚偽(自我)です。その記憶が相手を「あいつは分かっていない」「あいつは馬鹿だ」「私は
    なんと愛が無いのだろう」と思っているのです。 
    もしあなたが久保栄治や自分の中に虚偽(愛のなさ)を見ているのが虚偽であると
    いうこと、
    Kさんの中の自我が自我を投影して、それを自分の中と久保栄治として投影してい
    るということをハッキリと見たなら
    その見ているとき、呼吸が非常に緩やかに停止している状態であることでしょう。

    もしKさんが自分や相手の中に愛を見て、愛だけを知覚し認識しているのであれば
    (私はその状態ではありませんのでこれ以上は話せませんが)
    そのとき、あなたはあなたの内なるたましいと繋がったと言えるのではなりませんか?

Kさん:そうか・・・
    自分(たましい)の中の記憶が自分の中に自我を見、久保栄治さんの中に自我を見
    ているのか・・・
    私は「虚偽を虚偽と見ているものは虚偽である」・・ことを理解していなかったのだ・・。
    私やあなたを「愛のない自我だ」と見ていたのは、自分の中にある記憶自我であるこ
    とに気が付かなかったのだ・・。
    もし私から思考や記憶が浄化され脱落していれば、呼吸は停止しており、深い静寂と
    観照の中で自分の中に、そして久保栄治さんの中に「愛」を見ることが出来るのだな~


久保:私は勿論、現在は記憶に覆われていて、記憶が思考や行為として日常生活は記憶に
    まったく征服されて生きております。
    しかし、虚偽(記憶)に気が付き始めたと言うことは、その鏡の意識がそこで働き始め
    たということであり、「気づき(鏡)」がはじめから存在していたと言うことでありましょう。
    闇を闇として気がつき始めたと言うことは、光がそこにあることを証明しております。
    記憶を記憶として見ているのは気づきであり、日常での気づきが生じていない場合には
    記憶のことも、鏡のことも、鏡(意識)が記憶に完全に覆われていることも知るよしもあ
    りませんし、その虚偽(記憶・自我)に気が付くこともありません。自分が眠っていることに
    気が付くことは恩寵(気づき)が与えられていることでありましょう
    気づきこそが、恩寵であり、ありがたいことです。記憶を記憶として見ていることは恩寵で
    ありましょう。
    ですので教師が言うように「虚偽を虚偽と見ていることの中に真理がある」のでありましょう。
    その真理に対して「御免なさい、許して下さい、愛しております、ありがとうございます」と
    唱えることがさらに道を開いていくことでありましょう。

    
Kさん:ありがとう、私は中途半端に世界教師の教えを誤解していたようだったと思います。