自我であることの証拠


この文章を書いている私は「たましいの私」ではなくて自我である。


この私は「たましいと繋がっている私(超意識+表面意識+潜在意識)」ではなくて

「私を覆っている自我」であることは、以下に該当するので自我であることは明かで

ある。自我であることの特徴は次の通りである。


①自我は自分は肉体であると実感し死を恐れている。

 (自我は肉体に執着しているので、肉体に関心を持ち、自分を肉体だと思っている。
 そしてその自我は肉体の病気や健康、金銭や成功や失敗に執着し、死を恐れている。
 自己関心に溢れ、人からどう思われているのか心配し、競争し、一番になろうとしている。
 人を支配し、人から尊敬され敬われること認められることを願い、人を利用しようとしている。)


②自我は自分とは他人であるのに、目の前の相手(対象)とは自分ではないと知覚している。

 (自我は目の前の人や他人を評価し非難している。目の前の相手とは私なのに、相手とは
 私自身ではなくて、私以外の他人だと錯覚し、相手を非難し、相手を善くしようと、そう思い
 つづけている。相手を尊敬し愛することなく常に自分より下で、相手は何も分かっていない
 のだ思い込み、他人を軽蔑している。)


③自我は内面と外面、内部と外部を別々だと見ており、世界は私ではなく、両者は全く別
 であり、私は世界ではない、世界とは私が見ている対象だと知覚し実感している。


 (内面と外面、内部と外部を分割して認識しているのは自我であり、その自我は肉体の条件
 付けられている脳と結合している。自分は肉体であると錯覚しているので、世界を自分の対
 象として見て認識しており、自分は世界とは勿論別であり「私は世界ではない」と錯覚している。
 自我が終焉している場合には「私は世界であり」「世界は私である」との真実の知覚が発生し 
 ている筈であるので、久保栄治の場合のこの私は「たましいの私」ではなくて自我であり、
 この自我の私とは記憶の反応なのである。)


④自我は自我を知らず、自分を認めず、詫びず、受け容れず、許さず、愛さず、感謝せず、
 そして自分(自分である相手)のことを非難し、憎悪し、逃避し、評価判断し、自他を改善
 しなければならない、改良し、善くならねばならないと思っている。


⑤自我は「空・無」を恐れている。ゼロになることを恐れている。自我は自分が無にな
 ることを恐れており、神のようになろう、神の側にいられるよう自己実現しよう、真理
 を知ろう、悟ろうとして、常に「なろう」、「知ろう」、「至ろう」とたゆまなく真剣に努力し
 て真我を達成しようとしている。
 自我の本質は無であり、無となること、自分自身が空・無となることを極度に恐れている。


⑥自我は自分が行為していると実感し、そのように認識している。 
 
  (自我は出来事や、行うこと、見ること、話すこと、思うこと、願うことなどは、既に決まっており
  起こっていることであるのに、自分が自由意志で行為し、話し、見て、思い、考え、変革し、自
  分が選択していると実感している。
  自分は起こっている出来事(外部と内部)に参加し、出来事を変えることが出来ると錯覚して
  いる。自我である記憶は「他人が話し行為していることとは、自分の潜在意識の記憶が再生
  されている」ことに気が付くことがない。記憶は記憶の姿に気が付かず記憶を知らない。自我
  は自我の動きに気が付かず自分が自我であることを知らない。思考が自我であることを知ら
  ない。)