真理の言葉


先日、バレエの友人から久し振りに電話がかかってきました。


そこで彼は、ある日本の覚者からの真理の言葉を伝えて下さったのであります。

その真理の言葉とは


「私はあなた」

「あなたは私」

「私は私」(I AM I )


でありました。

その彼が言うには「自分にはこの真理の言葉を理解していないし、意味が分からない」

が唱えているのだと言っておりました。


もちろん私も、その言葉の意味を理解することは出来ず、私も彼と全く同じだと思った次第です。

何故なら意味を考えるということ自体が「たましいの私を覆っている記憶」の動きであるからであり

いくら考えて思索を重ねたとしても、思考には理解することは出来ず誤解することが関の山でありま

しょうから。


私達は、ご存じの様に朝から晩まで、そして夢の中でも、さらに肉体を離れても「記憶」の反応から離れ

ることは決してなく、24時間中ずっと、人生で途切れることなく、この目覚めないこの「記憶=思考」の中で

生き続けているということでありましょう・・。



朝から晩まで、仕事中も、家庭の中でも、テレビを見ているときも、本を読んでいるときも、車を運転し

ていても、話しているときも、そして夢の中でさえも、ずっと続いている「記憶の再生」、「記憶の反応」は

休むことなく働き続け、その中で私達は生き続けているのだと。


この記憶・思考である私には真実や真理を知ることもなく、理解することはないと教えられております。


記憶には思考や欲望や感情や想念のことは知覚認識する事は出来る事であろうけれども、この真理を

理解することは出来ないことであろうと思われます・・真理とは私達の肉体と同じように思考でもなく、記憶

でもなく、大生命ご自身の顕れであるからでありましょう。


記憶とは思考であり、思考では真理を知ることはなく、真理とは思考ではなく生命であるので、思考には

生命は理解出来ないのであり、その生命である真理の言葉は内容を理解することが出来ないのであり

ましょう。


従って友人からのこの真理の言葉を記憶や思考やそれによる探求では理解出来ないのであります。

従ってこの私も記憶であるからして、その真理の言葉を理解できないのであります。


日中の現在意識だけではなくて夢の中まで、さらには死後の肉体を離れた後でさえ続いているこの「記

憶の再生」にとっては、真理を理解出来ないのは当然でありましょう。真理は思考や言葉や情報ではない

からでありましょうから。


理解とは恩寵であり、天からの恩恵なのであり、獲得したり、伝達できるような言葉や情報ではありません。

理解とは真理と同じく生命自身なのでありましょう。


だからこそ私達にはこの真理を理解出来ても出来なくても唱えることが非常に大切なのではありませんか。

言葉を唱えることならば記憶に覆われていても「魂と繋がる私」にも出来るからであります。


この私の友人が伝えているように、理解は起こっていなくても、誤解ができると言うことは、ある意味で恩恵な

のであると言えましょうか?その誤解できるということは既に実在している「窓」「鏡」「枠」「意識」「空」「たましい」

の存在自身を前提としているからでありましょう。

即ち、誤解があるということは、誤解を写している鏡(意識)が既にあるから誤解できるのでありましょう。


空間がなければ、全ての物質や質料は存在することが出来ません。

生命(肉体)+脳がなければ、全てのこの記憶も記憶の再生も恐怖も、戦争も、飢餓もないことでありましょう。

光が顕れる為には闇が必要であり、闇がある為には時空を超えた「空・無限」が必要なのでありましょうから。



私はこの友人から伝えられた真理の言葉を理解することが出来るよう「理解を賜るよう」に祈りたいです。

私はこの真理を理解出来なくても、井戸を掘る際の呼び水のように、ただただ無心で唱えたいです。

「たましいからの私」が眠っていても、この言葉の言霊の作用を信じ唱えることだけは出来るからであります。



さて同じように友人からの真理の言葉にもう二つ加えたい真理の言葉があります

それは

「内部は外部であり、外部は内部である」

「私は愛している」

であります。


さて

私達は朝から晩まで、否、夢の中さえも目ざめることなく、「記憶」の中で記憶と一体化して生き続けております。

見ることも、話すことも、思うことも、行うことも、思索さえも記憶が為しており

記憶にはこの枠を超えることは出来ないことでありましょう。

「魂と繋がっている私」は記憶ではないので、思考せず、行為せず、「私」を愛していることでありましょう。


従って、この記憶である私には、決して私を知ることは出来ず、知ることもないでしょう。

私自己を高次の私と低次の私に分割して、「私は真我です」「私は記憶です」と、自己を分割して、自分を知った

つもりになり、自分を理解しているつもりになっているのが記憶であるからでありましょう。


この「たましいからの意識」と記憶の思考が混合している状態では「真理」を理解することが出来なくても

友人から与えられたこの言葉を唱えることは可能でありますので、この言葉を唱えることが非常

に重要なこととなるのではないでしょうか。


この友人からの伝言された言葉とは真理であり、その真理の言葉であり、その言霊は真理の響きがあり

いまは理解することは起こらなくても、真理の言葉を唱えることは、その真理の言葉は必ずや記憶に浸透し

言語や想念や記号や情報を超えて鳴り渡りはじめ、徐々に「意識」を顕わにすることでありましょう。

・・・呼び水のように

・・・と信じております。































この私の名を騙り、私達の振りをしている「記憶」に真理が分かるのだろうか?