私達の中にある記憶




ホ・オポノポノのヒューレン博士はユーチューブの中の講話で私達の潜在意識の中

にある記憶に関することを多く述べておられます。


私達の殆どは「潜在意識の中にある記憶」に殆ど気が付いていないと言うのであります。

ヒューレン博士は私達とは超意識と繋がっている顕在意識と潜在意識であり記憶ではない

ということを仰っております。私達とは透明で限りなく拡がっている「空」なのだと。

記憶とは私達の潜在意識にあって私達の思考や感情や行為をしている自己自我だと。


では何故、私達は潜在意識にある「記憶(自己自我)」に気が付いていないのかと言えば、

私達は記憶の中にどっぷりと浸かっていて、完全に記憶と一体化してしまっていて、記憶に

染まってしまっているので、自分と記憶との区別がつかず、客観的に記憶のことを見ることがで

きないような状態となっており、私達である「魂と繋がっている顕在意識」は未覚醒の状態であ

るからであると言っております。



私達が私達の潜在意識のことを知覚認識して、潜在意識の中にある記憶の動きを、そし

て記憶の全体像を徐々に見ることが出来るような段階・・・


即ちこの記憶(自己自我・思考者・行為者)を見ている状態とは、どういう状態なのでありましょうか?

この意識状態を別の角度から言えば・・記憶を見ているのは「たましいと繋がっている顕在意識」

であり、その意識が見ている・・ということ・・これが記憶を見ている状態になったということで

ありましょう。



そのとき私達は顕在意識として、「私達の潜在意識の中にある記憶(自己)」の動きと働きのことを

ハッキリと見ることが出来るようになるのだとおもわれます。


この事を逆から捉えれば、記憶に気が付き、記憶の働きを知覚できるようになったとい

うことは未知なる自分自身である「たましいと繋がる顕在意識」の意識が少しづつ表面に

顕れてこの顕在意識が働き出して来ていると言うことなのでありましょうか。


しかしながらここでは非常に注意が必要です・・というのも記憶を見ているのも記憶であるからです。

ですので、顕在意識が目覚めた場合には「記憶が見ているのは記憶自身の姿である」ということを

ハッキリと知覚していると言うことでありましょう。記憶とは神が演技している自己自我なのですと。



記憶という私・自己・自我を愛し、感謝しているときこそ、記憶という観察者のことを直視していると

言うことでありましょうか。


しかしながら残念なことに私達は今のところは記憶の中に完全に取り込まれてしまっているので、

記憶の自我を私達だと錯覚しております。そして、そう言う状態なので、私達は記憶に完全に覆わ

れていると言うことに気が付くことがないわけです。




この記憶と一体化しているところの「たましいと繋がる顕在意識」の状態の意識とは具体的には

果たしてどのような状態なのでありましょうか?

その記憶である私・自己・行為者・思考者・観察者のことを許し、許され、愛し始めるとき・・・


それは私達の意識が記憶の状態となってしまっているということに気がつき始めたということで

ありましょうか?それは記憶の動きと働きを実際に見つめることが始まったという事でしょうか?


それではこの記憶(私・自己自我・観察者・行為者)の意識状態の特徴とは何でありましょうか?


●行為とは神が起こしているのに、「自分が行為している」と思っているのは記憶である・・と

 いうことに気が付いていない。この「自分が行為しているという感覚」がある限りは記憶に

 よる束縛が続いているということであります。本当は行為が起こった後に、記憶が行為を

 知覚して「私が行為している」と錯覚しているのだと言われております。

 「たましいと繋がっている顕在意識」は行為に関わっていないのに、記憶と一体化しているので

 記憶と同様に「私が行為した」と実感してしまっているのではないでしょうか。



●記憶自身は人類で一つの集合意識なのに、私は個人で他人ではないとその記憶は思っています。

 人類で共通で同一の記憶が特定の肉体と繋がり、私は個人だと思い込んでいるのですと。

 記憶自身は「私という観念」の記憶であり、「自分は他人ではない」、「私は他人とは別で異なっている」

 と錯覚しているのではないでしょうか・・・

 「あいつが悪い」「あいつは最低だ、なんとかならないのか」、「あいつは敵だ」「あいつは嫌いだ」

 「あいつを教育して正さねば」 「私は正義で、あいつは間違っている」などと、記憶が自分自身を

 非難しています。自分から逃避しています。

 自分自身の姿を相手の鏡に投影していることに全く気が付かずに、相手を判断し、非難し、恐れ

 評価し、憎んだり、恨んだり、相手を正そうとしたり、教育しようとしたりしております。


●世界とは既に完全完璧なのに、記憶は自分自身の姿を世界に投影して見ており、世界は暴虐と苦し

 みの連続に見えてしまい、「神などいるはずがないではないか?神がいるなら、世界は、どうして

 こんなに悲しみと恐怖と殺戮が絶えないのだろうか?」などと自分の姿を投影して苦しんでおります。

 また、人生は既に起こっているプログラムの劇場なのに、記憶は自分は自由意志があり人生を自由に

 生きていると錯覚しています。

 
 また同じように記憶が見ている外部とは記憶の内部なのに内部と外部が異なっているのだと見て

 いるのは記憶なのであり、記憶が見ている世界とは記憶自身の姿なのではないでしょうか?


 記憶が見ている世界とは「たましいと繋がる私」を覆い尽くしている記憶自身の姿なのであると。

 ・・記憶が記憶自身の姿を世界の上に投影して見ているのだという事に、全く気が付きません。


 同じように記憶と一体化した記憶に覆われている「たましいと繋がる顕在意識」は私達が見ている

 世界とは記憶が見ている記憶自身の姿であることに気が付きません・・目が覚めていないか

 らであると。記憶が取り払われたならば本来の姿が顕れ、外部は内部であることに気がつくであ

 ろうと。全ては既に完全完璧であると・・・その様にヒューレン博士はそのように言っているのであ

 りましょうか。