思考なく見るとは愛するということ





「思考なく見ている」とは、それは「愛している状態」であることであろう。

それは又「見るものは見られるものである」を理解している状態でもあることだろう。


しかしまた、それらの愛と理解は恩寵があたえられなければ起こる事は無いことだろう。


その愛の状態のことはこの記憶(思考)には推測することも理解することもないことだろう。


その究極の愛に於いては自他の分離がないことだろうし

その愛の状態とは、それは「思考なく見ている」状態であることであるだろう。


思考とは自分を他者の鏡に投影して、他者(実は自己)を判断し、非難し、逃避し、善悪、

敵味方に分割する。

それに対して「愛」の中には自他に分離がなく、「私はあなた」である状態であることだろう。

それ故に「愛」とは自己・自我否定でもあり、自己自我が消滅し死ぬことでもあるといえる。


また、この状態とは「愛」に全託している「表面意識と潜在意識」がたましいと繋がり

そこへ「万物を生かし生きておられる大生命」が顕現している状態であることなのだろう。


たましいである意識とは「最小にして最大」、「原子の中に宇宙」、「個の中に全てが有る」

即ち「無限の空」の状態なのだと賢者は言っているが私には理解出来ない、思考だから。



そう言う次第なので思考なく見ているということとは、愛しているということと同じであると思う。

思考なく見ているとき、そこには真実の愛が顕現していると教えられているからだ。

そこには自他の分離は無く、見る者と見られるものの分割がないからであると。





しかしながら

現況の私達とは運命とカルマによって決定されている肉体と脳に一体化しており、

「自我である記憶(全人類の記憶)」に完全に覆われてしまっている。



ヒューレン博士が言うように思うこと、考えること、行うこと、話すことは「たましいと繋がっている

表面意識の私」がしているのではなくて、記憶がしているのだと。

では、たましいと繋がる表面意識の私はいかにあるべきなのか、何を為すべきなのであろうか?

ひとはその様に思うかも知れない・・・けれども

そもそも、どうあるべきか?と考えているものこそ表面意識の私ではなくて、私の潜在意識

を占有している記憶の思考なのではないか?


考えることとは記憶がしているのであり、たましいの私は思考していないと言われているからである。


では記憶の私にとってベストの選択とは何だろうか?

それは、万物一切を、非難、評価、判断、好悪なく、ただただ「愛すること」なのではないか。

まずはじめに記憶である自分自身が記憶である私を愛することなのではないか。

しかしながら本物の愛とはこの思考の私がいる限りは顕現することがないので

正確には記憶の私が「愛しています」と「記憶の私」に対して心を尽くして念ずることではないのか。

それは即ち

「愛していると一生懸命念じている私・自我記憶」を自我自身が愛するということだろう。

何故なら記憶に対して「許して下さい」「愛しています」「ありがとうございます」と唱えている私こそ

その記憶であるからであろう。即ちそれは思考の死、であり、自己否定であり、根源に帰還する

ことでもある。


しかしながらこの複雑で狡猾な記憶の全構造をハッキリと理解して見ているのは記憶ではなくて

記憶に汚染されている表面意識であることだろうと教えられている。


どこからどこまでが記憶で、どこからが「たましいと繋がる表面意識」なのかは記憶には

分かることではないし、記憶には記憶を見ることは出来ないので、それを知る事は出来ない。

何が真実で何が虚偽か、誰が悟って本物で誰が偽物なのか、などは思考には分からないので

あり、悟っていない限りは誰が本物かを識別することは出来ない。思考のする判断・評価は偽物

である。



脳の状態が引き起こしている才能やカルマや衝動や運命の出来事には逆らえない。


起こることに偶然なことはひとつもなく、全ては必然であるからであることだろう。

起こるべき事は起こるべき時に起こるのだと言われている。何一つ偶然はあり得ないと。

自由意志や選択とは起こるべき時に起きているのだと。

だからこそその起こっている自由意志に対して正しく為すことを選択すべきであると。

・・・それが「万物を評価判断せずあるがままに愛する」ことを選択するということなのではないか。




この内と外に起こるべき出来事が起こっている肉体に、そこへ記憶(自我群)と一緒に入った

のはたましいと繋がる表面意識である。

しかしながら私達であるたましいと繋がる表面意識は殆ど眠ったままである。

(思考しているとは眠っていることを証明していることなのであり、思考が有る限り「見ること」

はないと教えられている。私達が知覚し認識し見ているのは自身の姿、記憶の姿なのであ

ると。何故ならこの知覚認識している私というのは私を詐称している記憶だからだと))




この眠ったままの状態で脳と肉体に入ったのが「自我・記憶」に汚染されている私達であり

この「自我・記憶」を「自我である記憶」が「愛していますと念じる」ことが「目を覚ます」為には

非常に大切なことであることだろう。(記憶が解消され根源に戻るということ)


この脳の条件付けの反応である才能や障害や欲望に攪乱され混乱している「自我・記憶」

を「愛していると記憶が念じている」状態を凝視しているのがたましいと繋がっている表面意識

であることだろう。

しかし巧妙な記憶は「自分はたましいと繋がる表面意識」だと思い込んでいることだろう。


上記の記述は少々複雑ではあるけれども、

私達人間とは複合存在なのであり、常識が思うほど簡単に理解できる存在ではないのである。

どこからどこまでが記憶の反応であり、どの意識がたましいからの意識であるのかは記憶には

判明できないし、知ることはできないだろう。

だからこそ考えることなく「愛している」「ありがとうございます」と唱えることが重要となる。



「才能や障害や運命やカルマや衝動や脳の条件付けである肉体・脳」という決定されている

出来事に入り結合したのが

私達・たましいの三つ組み即ち超意識+表面意識+潜在意識であり、

私達である潜在意識の中には個人だけではなくて全人類の記憶という過去からの全ての自我で

構成されていると教えられている。

しかしながら私達の内奥には、このたましいの三つ組みを生かしあらしめておられる、魂の本

質である「至高なる実在」が厳然として在ると言われている。




私達とはざっくり言うと以下の複合存在であると信じている。


+肉体・脳(条件付けられている脳からの反応)

+記憶(魂の表面意識を覆っている全人類の狡猾、巧妙なる自我、即ち思考と感情)

+たましいと繋がっている表面意識+潜在意識

+大生命


なのであろう。