人の心は天照大御神の御分心


以下の言葉は私がこころから敬愛している黒住宗忠の言葉です。

黒住宗忠は天照大御神と一つになった希有の人です。


「夫(そ)れ人の心は、天照大御神の御分心にして、

我が心に非ざる故に、是を傷(いた)むるは天心を

傷(いた)むるなり。

また是れを養(やしな)ふは天心を養(やしな)ふなり。」



私達の心とは天照大御神の御分心であって、我(エゴ・記憶の反応・思考)

の心ではない・・ということ。

私達の心を「我(エゴ)の心」と取り違えてしまうのは天の心を傷めることであり

私達の心を「我(エゴ)の心」から浄化するのは天の心を養い

育てることだ

ということでありましょうか。







以下はヒューレン博士の言っていると思われる事と黒住直忠師の教えを自分

なりに感じたままを記してみたものであります。



私の目の前の相手とは

心の中に棲んでいる「我(エゴ)の心」であり、それは相手を見ているこの私のこと。


目の前に繰り広げられている苦しみと悲しみの世界は、真の私である天照大御神の御

分心が見ている世界ではなくて、記憶という「我(エゴ)の心」が見ている世界であると。

もし私である天照大御神の御分心が見ている世界であるならば、その目には愛に

値しないものはなにも見えていない事でありましょうから・・。



私が対象として見ている内部世界と外部世界とは私の潜在意識の中に棲む「我(エゴ)の

心」・自我が知覚している「自我の心」、自我自身のすがたなのであると。



「天照大御神の御分心である私」の潜在意識の中にある「(私を詐称する)虚偽(

記憶)の私」が虚偽(思考、我の心)を見ているのであると。記憶が記憶を見ている

のであると。ヒューレン博士が言っていることと同じことを言っておられる。


外部に見えている相手やあらゆる出来事は「対象を見ている私」の中にあり

知覚する全てのことの責任は「対象を見ている私」にあると言うことだろう。

それは、もし、天照御祖神の分心であるならば「I AM I」であり「全ての中に私

がいて私の中にすべてがいる」という時空を超えて遍在している超意識の意識状態

であるということだろうから。この超意識的意識状態にヒューレン博士や黒住宗忠

師はおられるのであろう。



世界の貧困と騒乱、虐殺や不正は私の内部にあり私の責任だとヒューレン

博士は言う。何故ならば私は世界であるからと。〈このヒューレン博士の意識

状態は推測するに時空に拡がっている超意識(霊)の意識なのであろうか〉。



内部が外部に投影されているのに、その投影されている潜在意識にある記憶

は「立ち向かう相手」とは自分ではないと錯覚しているのだと。



対象として知覚されている事柄は内部であり、それは即ち対象として知覚されて

いることとは「知覚している私自身」であり、知覚されている事は全てが私の責任

であるということだろうか。・・・・この悟っている境地は私には全くお手上げである。


見ている私が、私の内部を外部に投影して、対象として見ているのであって、それは

即ち見ている私が生みだしたものであり対象世界とは見ている私の責任だからであると。

自分が自分自身のことを知覚対象として見ているのである・・・ということなのだろうか。


内部と外部に見えていること、テロ、戦争、病気、恐怖や思考、暴力と不安、神経症等々

それらはそれらを見えている私、見ている私自身であり、見えている事の全ては

それを見ている私の責任であることだというのである。何故なら「見るものは見られる

ものである」からであると言われる。世界のあらゆる事、テロや殺人や虐殺の責任はそ

れを知覚し見ている私にあるのだと言うのである。


だから見ている私を癒やすこと、見ている私を愛することが最重要課題となる。

だからヒューレン博士も黒住宗忠も一心に「ありがとうございます」「許してください」

「愛しています」「御免なさい」を私に向かって唱えなさいというのである。


ヒューレンは相手を癒やすのではなくて「私は彼らを作り出していた自分の中の

部分(記憶)を癒やしていただけです」と言っている。




その記憶である「私(エゴ)の心」が、向かい合わせの鏡である「相手の神聖なる

心」に自分の潜在意識にいるエゴを投影して「エゴの自分」が自分を非難し、自分に対

して戦争を仕掛けているのであると。見ている相手とは自分の姿であると。他者を自分

ではないと知覚しているのは記憶なのである。・・・従ってこの現在の自己・人格とは記

憶なのであると。他者を他者として知覚している以上はこの私は記憶なのであると。

記憶が対象を非難しているのだ、その私は私ではなくて神の子の私を覆っている記憶

なのであるとその様に教えておられるのであろう。



・・・その「我が心」の自分とは、天照大御神の御分心である「私」ではなくて「私」を詐称

する(私の潜在意識の中に棲んでいる)私であり、天照大御神の御分心である「私」を覆い

隠している記憶即ち「私(エゴ)の心」のことであると。




虚偽を虚偽と見ること、即ち私ではないものを私ではないとハッキリと見ること。

虚偽の中に真実を見ること、即ち「我の心」に覆われていている神の子を見ること。

真実を真実と見ること、私達である神の子を神の子と直に見ること。


真実に至る道やシステムは多くの方法があることであろうが、たどり着く頂上は一つ

なのでありましょう。



・・と思す次第であります。