思考と心とは異なる





私の敬愛する神道の黒住宗忠は心を三種類に分けている。

我の心

人の心

天の心   である。




私達は心と思考を混同していて、識別せず同一視してしまっている。この「我の心」という低

次思考である記憶の反応と、たましいと繋がっている「人の心」からの思考感情のすべてを

「記憶の反応である思考即ち我の心」だと錯覚している。



心は大まかに三種類あり、「我の心」である記憶からの低次思考と、それとは異なるたましいと繋

がっているという「人の心」が成長した結果として起こしている高次思考としての心、そして私達

凡人には知ることもない熟睡中にも機能しているところの条件付けられている脳(脳は条件付

けられているので、すべてを自と他に分離分割して知覚している)ではない再形成されたサイコ

ノエティック体の意識・・即ち「天の心」という超マインドが有るという。



私達は記憶の反応としての思考と、たましいと繋がっている「人の心」が成長した結果としての

高次思考を私達の表面意識内では、それらが混合してしまっている表面意識(人の心)に於いて

知覚される思考のすべてが記憶の働きだと錯覚しているので、『未だ未熟ではあるけれども、

「たましいと繋がる私」』からの高次思考を否定してしまっており、先に進めない状態になっている。


しかしながら実際の現状としては、これを書いている私も、そして読んでおられるあなたも

表面意識にあるのは潜在意識を占有してる「我の心」であり、自覚されている心とは「人の心」ではなく

「我の心」であり、内と外を見て考えているのはその恐怖であり、暴力的であり、自己の損得だけに拘

泥し自己関心に満ちている愛のない「我の心」である。


「思考なくして見よ」と言われている私達ではあるけれども、魂と繋がる私達である「人の心」と

いうのは記憶の思考に覆われていても、その「思考無く見ることの可能性」がこのような現状

の中にも僅かにだがあるというのである。(私達は真理の種子、眠れる神の子なのだという)


同じ思考でも『「我の心」である潜在意識にある記憶の反応』という通常一般常識の思考とは、

魂と繋がっている表面意識である「人の心」からの高次思考と異なっている。



さらに私達凡人には想像すらできないのだが

その「人の心」から記憶がクリーニングされた後に顕れるとされる「天の心」からの超思考が有

るというのである。


しかし、それとは正反対に安易な精神世界の方々の主張に見られるように

私達はそれらを一緒くたにしてしまって記憶である思考即ちエレメンタルが起こしている思考を

「人の心」や「天の心」であると錯覚している場合もあるからして事情は更に複雑である。



我の心とは  潜在意識の記憶の再生、即ち低次思考のことであり、人類の「私は個人であり、他人とは

         全く異なる存在である」と意識している人類共通の根源的な私という観念のこと。この

         私という観念が頭脳を経由して私達の内部で起こっている思考感情でありその記憶の反応である。

         (その記憶は私は肉体であり、私は何々人で特定の国籍や人種だと思い込んで相争っている)
         
         この記憶の特徴は、自他を分割すること、自他を善悪、良否、高低などと分析評価し相

         争い、自他を非難し、自分にとって益になるものとそうでないものを常に判断している。

         所謂自己関心の心である。自己の損得を計算し、目的に向かって努力し、計画し、願い、常に

         何かにいたろう、なろうとして、自分を非難し、自己からの逃避を図り、あるがままを決して受け

         入れない記憶の思考である。全体である自らを自他に分離分割する記憶の心である。

         この我の心を浄化するためには、「天の心」にお願いし「人の心」が「我の心」に感

         謝し、許しを請い、懺悔し、愛さねばならないと教えられている。


人の心とは  たましいと繋がっている「人の心」とは透明無垢なる鏡であり、本来は天の心を

         写す鏡であるのに、

         人の心は「我の心」に覆われていて、我の心と自分の心を区別ができない状態に

         なっている。「我の心」が思うように「人の心」も思い、我の心が為すように為して

         しまい、その結果、カルマを生み出し続けているという。

         しかしながら「人の心」は各人のそれぞれの諸体の段階によって違うのであるという。

         各人のサイコノエティック体の形成状態は異なり、それは潜在意識の記憶と一

         体化している段階から、記憶から浄化された「幼子の心」「青空の心」まであるという。

         が、しかし「人の心」とは本来は高次思考であり、空であり「我の心」であり判断や非難や

         愛憎の心や善悪や敵味方を区別する心ではなく、常に笑顔のたえない和顔愛

         語讃嘆の心、感謝と愛の心であり、そのためには修行と訓練を絶やすことなく

         続けることで、浄化され恩寵により天の心を顕すことが出来る様になるという。花や樹や

         動物たちと話すことができるようになるという。そしてついには本来の透明なる空・

         鏡となり大空を映し出すことが出来る様になるという。

         


天の心とは  人の心である鏡に輝く天の心、空の心・・・私にはそれを語る資格もないし、体験もない

         のでわたしには話すことは不可能である。

         ただし、この「天の心」とはクリシュナムルティーがいう「思考なくして見ている」といわ

         れている天の心の状態、即ち観照者(たましい・超意識)の開かれた目のことであり

         第三の目と言われている再形成されたサイコノエティック体の事である

         このあるがままを思考なくあるがままに見ている天の心は、肉体の生死や内部と外

         部の起こっている出来事に影響されず、肉体の脳の状態である睡眠に影響されず、

         熟睡中でも熟睡している肉体・頭脳を見ている再形成されたサイコノエティック体

         高次ノエティック体という時空を超えている心のことであろうかと推測している。これは

         真性の対外離脱であり、成長したサイコノエティック体による肉体からの体脱であり

         似而非体脱である潜在意識やエレメンタルへの沈下のことではないという。