肉体に入った私とは
肉体に入った私(たましいと繋がっている私)とは三層構造になっているらしいです。
①表面意識(未形成の霊的諸体だが人格と言う想念形態ではない)
②潜在意識(この中に個人や人類の記憶もある)
③たましい(至高の実在と繋がっている)
というのです。
しかしながら、この三層構造の「たましいと繋がる私」の中には
今現在の意識的自己である私、そして死後も生き続ける「記憶である個人や
人格の私」は入っておりません。
この思考し、行為し、人生を生きている私とは潜在意識の中にある「記憶」
のことであり、しかも「全人類で共通の記憶」だと言うことであります。
なので、ここでいう私達とはたましいと繋がっている私の事であって、個人や
人格という記憶の反応である思考や感情のことではないのであります。
■肉体を離れた後は、私達はどのような意識状態で生きているのでしょうか?
多くの資料から推測するに、私達は肉体から離れただけなのであって異界ででも、こ
の世と同じように生きております。それはこの世と同じように潜在意識にある記憶に覆われ
包まれ、その身体(思考感情体)に繋がれ、その肉体ではない別の身体に同一化し
た状態で人格や個人と一体化した迷妄の中で生き続づけております。
ということで
ここでいう現状での現在意識とはたましいと繋がる表面意識の事を指していないので
あります。何故ならたましいと繋がっている私は思考することなく思考を観照している
からですと。「見ている私」(記憶)を観照しているのが表面意識の私ですと。
■現在意識とは、表面意識を占領している記憶のことであり、思考の反応のことです。
残念ですが私達表面意識は記憶の意識(現在意識)=思考に占有されてしまっています。
(表面意識は記憶によって完全に包まれ覆われてしまって思考との混濁状態であるの
が現在意識ですと)
■日常生活での意識とは、この表面意識ではなくて、「潜在意識の中にある記憶」の条
件反応としての思考活動のことであり、それは必ず功利的、利己的な自我の活動となり
ます。そしてその記憶が見て、感じ、考え、計画し、思索し、行動し、質問して人生を
生きております。
■生々流転し、時代とともに、起こっている戦争や災害や地震や洪水、それらのマーヤに
よって起こっている出来事に対して・・記憶の条件反応が始まります・・・
それは、あらゆる努力や内面活動、想念や思考のことであり、同時に目標や理念や計画や
思索や探求などを為す私です・・・これらはこの記憶の反応であります。
■思うこと、信じること、願うこと、感じる事など全ての知覚と認識は表面意識なのではなくて
表面意識を覆い尽くしているこの記憶が三界の現象世界の起こっている出来事に対して
反応しているのではないでしょうか?
起こっている出来事に反応しているのは私達ではなくて記憶なのですと。
■記憶は肉体をコントロールし、頭脳を使用しているので私達の行為や行動とはこの記憶
が為しています。
全人類のあらゆる思考活動、宗教活動、信念や理念や計画はこの記憶が行っています。
そしてあらゆる日常生活はこの記憶が思考し、感じ、行っています。
■記憶とは自分自身を、見る者と見られるものに分割し、実際の物質世界の上にダブらせて
自分を投影して、自分自身の姿を内部と外部に知覚認識しております。他者とは私なのに
私は他者ではないと思っているのです、自他の内面とは、実際には記憶の内面の姿なので
すと。
■記憶は自分自身を相手として、見られるものとして知覚認識しているので「見るものは
見られるものである」を決して理解することはありません。記憶が見て知覚して認識している
世界(内部世界と外部世界)や私とは記憶自身の姿なのでありましょう。
このように現況では私達における①の表面意識とは、潜在意識にある「記憶(深層では全人類
で共通のマインド)」と完全に一体化しているので、
「記憶を記憶として見ていること」即ち「虚偽を虚偽と見ていること」、「私は記憶ではないこと」
を理解することが出来ませんが、これらのことを実感しようとしていることが即ちたましいから
の表面意識への働きかけなのでありましょうか。
A:記憶とは(マインドとは)
●記憶とは思考であり、その記憶が太陽神経叢に位置し、脳を支配しており
知覚や認識そして行為し思考し、目的や計画など感情や欲望などを起こしている
出来事に対して脳を通じて条件反応を起こしている。
●記憶は自己自身を分割し、自分である相手を客体として観察し、反応している。
即ち自分を他人として知覚認識して、自分自身なのに敵だと認識し、自分を憎悪
し、自分を恐怖し、自分と競争し、自分を非難し、自分と争い、自分を軽蔑し、
自分を虐殺し、自分から逃避し、自分を殺戮している。
●記憶の最大の特徴は、自分自身を内部と外部とに分割し、私とあなたに分離し
て知覚認識していること。
そして自分である相手を敵だと知覚し、自分と競争し戦い、憎悪し、逃避している。
●記憶とは、私達が完全に一体化している「私という観念」のことではないだろうか
それは無知であり、恐怖であり、神聖なるマーヤなのであろうか?。
心の中の恐怖、不安、絶望を知覚認識しているのは記憶である不安や恐怖では
ないだろうか。
冒頭での①の表面意識は、思考や感情といった記憶の作用ではなく、時限を超えている意識であり
現在の人類という完全に記憶と一体化している状態の知覚や認識では理解出来ない「空」若しくは
「鏡」「意識の座」「スクリーン」などと呼称されている無限に拡がる空間のことであると言われている。
私達とは無限に拡がる意識なのであり、潜在意識にある記憶ではないと言われております。
言葉を換えれば、私達は時間を超えて拡がっている空間意識そのものであり、決して自他に分離し
ていると錯覚している記憶ではないと言うことでありましょう。
この①のたましいと繋がる表面意識が肉体を去っても、三部構成である私達は、潜在意識に
滞留している「記憶」からの解放はなく、あの世でも、記憶であるところの見る者や聴く者、
行為している者、知覚している者と一体化していることでありましょう。
個人の私とは記憶であって表面意識の私ではなくて、思考であるのであり、私達はその記憶と
一体化してしまっていることでしょう。
記憶からの自由・解放は
ホ・オポノポノのヒューレン博士が言うように、記憶からの解放とは未熟段階の三部構成の私達には
不可能であり、私達を生かしておられる至高の実在からの恩寵によるという事であります。
ここで大生命への完全なる信頼と帰依、そして全託、五体投地の必要性があるのでありましょう。
「御免なさい」「許して下さい」「愛しています」「ありがとうございます」という言霊を内なる
至高の実在に捧げ、その言葉が私達の中に響き渡ることが、解放への鍵でもあるのだと思われます。
と信じております。