眠っている最中は何故意識がないのか?





誰もが思う質問

「眠っている間、意識と脳が別ならば、脳が眠ってしまっても意識はなくなることは

無いはずだが?」と思うことでしょう。


肉体の脳が眠ると、どうして魂の私も眠ってしまうのでしょうか?

もし私達が魂なら肉体が眠っても魂としての意識は眠らないのではありませんか?


このような質問を先日受けとりました。




だが、眠っているのは・・・・脳のある部位であり、たましいからの表面意識はその

脳の眠っている部位と繋がっているので、そして尚且つ魂からの表面意識は未だ

眠ったような状態=非活性化の状態なので・・・熟睡中は何も知覚されない状況

即ち無意識状態が続くのでありましょう。


そのたましいからの表面意識は殆ど目覚めていない状態で脳と一緒に眠ってしまい、

その熟睡状態にある表面意識には潜在意識にある記憶は知覚されず、従って思考

も感情も行為も記憶によって為されていない一時休止状態となるのでありましょう。




行為している私を、思考している私を、自他に分離している私を認識をしているのは自己自我と

言う人格であり、その人格は記憶であり、その人格の私はたましいと繋がっている表面意識で

はないことでありましょう。


眠っているのでその間は記憶の人格との繋がりが一時的に遮断されているわけです。



そしてたましいと繋がる私は翌朝、脳が覚醒したあとに、潜在意識の記憶(思考体・感情体・

想念形態)と一体化してしまった表面意識として、再び記憶を知覚認識することでありましょう。


そして何ら疑うことなく「自分は肉体で、この思考は自分の思考だ」「私が行為している」

「私は殺ってしまった」などと記憶(思考感情体や想念形態)と一体化してしまうことであり

ましょう。

(しかしながらこの記憶とは潜在意識にあり、私の責任なのです・・・と)



このたましいからの表面意識は未だ未熟で記憶に覆われており、本来の「目」が開眼して

いないので見ることも行う(思考の行為ではない)ことも無いことでしょう。

常に記憶の思考や行為と一体化しています。




たましいとつながる私は記憶(人格)が見るように見てしまい、記憶が考えるように考え、記憶が

感じるように感じ、記憶が行うように行っているのでありましょう。




朝起きて、そのたましいからの表面意識(起きても目が開いていない)に知覚認識される世界

は記憶が見ている世界であり、昼間もずっと記憶が見ているのであり、夜寝るまで知覚認識さ

れる世界とは記憶が見ている世界なのでありましょう。


たましいからの意識は殆ど目覚めていないことでありましょう。この苦しみの世界、私とあなたとは

異なり、敵と味方があり、正義と邪悪があり、自分と万物が分離し、善と悪が戦っている・・その様に

世界を見ているのは記憶なのです。世界と自分を見ている私とは記憶であり、記憶が世界を、そし

て記憶がその記憶自身を対象である他人として、また私自身として知覚認識しているのでありましょう。



であるので、この表面意識の意識とは思考や感情のことではなく、透明な鏡・・空の意識のことであり、

この鏡に映し出されるのはあるときは潜在意識の記憶からの思考や感情であり、あるときはたまし

いからの至高の意識を写しだすことでしょうが、自らは決して思考せず行為しない、鏡の意識、目

なのであるということでしょう。





たましいと繋がっている表面意識は「脳の眠ってしまうその部位」と繋がっているので、この条件付けられて

いる脳が眠ると一緒に眠ってしまい、その眠っている間は記憶の思考や感情や行為の活動である世界や

内部の葛藤が知覚されない・・・眠ってしまっているので記憶からの思考や感情は何も知覚されないで一時的に

記憶から解放されるという状態=「寝るほど楽はなかりけり」になるのではないでしょうか。


そして朝がやってきて脳が醒めると一緒にたましいと繋がる表面意識も活動をはじめて、そして潜在意識に

ある記憶の思考や感情や行為(思考体感情体や想念形態の思考や行為)を再び知覚し、その記憶である

人格と自己同一化する事になるのでありましょう。



しかしながら

恩寵により脳の条件付けが解除されて脳と繋がる表面意識を覆っている記憶からの自己自我の

思考や感情や行為が停止し脱落したときに(自己が脱落したときに)たましいとつながる顕在意識

の目が開眼し


その結果、条件付けから解放された脳には至高の存在の意識が受信され、その脳に繋がる

たましいの表面意識には至高なる存在(プルショタマ)からのインスピレーションが与えられて

「わたしはあなた」「わたしはそれ」「私は万物」「I AM I」と自己認識が起こることでありましょう。