神が生きておられる、神しかいない







ある教えから抜粋



神が万物として生きておられる。

神以外には何ものも存在していない。

人間も、あらゆる生物も、あらゆる万物も神が生きておられる。


心臓や呼吸や脳が大生命によって創造され生きておられるように

同じくあらゆる出来事や思考や感情や記憶や行為も大生命によって起こっている。

私という自己意識も大生命が創造し、芸術作品の一部として神が演じておられる。



・・そして

その大生命によって生起している出来事・行為に対して

その記憶である思考という「大生命によって起こっている出来事」への間違っ

ている解釈が続いて現れてくる。

(記憶が見ている世界は記憶自体が分離している統覚なので、森羅万象は相克し

生存競争を繰り広げている弱肉強食として世界に見えているのである)。



この記憶による知覚と認識が、今現在の私達が見ている内部と外部世界である。

この苦しみと殺戮の世界は不完全であると見ているのは目ではなく目を覆っ

ている記憶なのである。そしてこの記憶が朝、目を覚ましたのだ。(たましいの意識は

この記憶によって覆われてしまっており顕現していない)




この「記憶による知覚認識」とは私・自我のことである。記憶が見て知覚し判断しているのである。


この記憶とは神聖なる「神のマーヤ・私という観念・マインド・根本無明」の記憶のことであろう。

この記憶が「なる」「する」「至る」と目的を持ち、決意し、努力し、修行し、探求している。

私・自我とはこの大生命によって起こっている出来事である行為や思考

や感情や欲望に対する「記憶の反応」それ自体なのである。

起こっている出来事に反応しているのが記憶なのである。

そしてたましい(鏡)を覆っているのはこの記憶なのである。




マーヤである記憶が自他の分離、悪と善、全体と部分、敵と味方、正義と邪悪、

内部と外部、私とあなた、見るものと見られるものの分離、高低、最初と最後、

最高と最低、こことあそこ、過去現在未来などの幻影を維持している。


「記憶の反応」(思考)が起こっている行為や感情や欲望を自己流に解釈して、それに

対して同一化したり判断したり、非難したり、逃避したりしている。


・・・がしかし、その「記憶の反応」も起こっている出来事の行為や思考や感情と

同じくそれらの創造主が記憶(自我)を使役して演じておられるのである。



従って

身体、肉体の行動や、出来事、思考、感情、行為、欲求、運命、才能、障害、衝動

健康、病気、生死などは記憶である私にはコントロールできないし、


かつまた

それが起こった後に記憶である自己自我がそれらの起こっている事に対して善悪をつけ

正邪の判断をしたり、自他を分離しているように感じ間違って知覚し認識しているので、

この記憶の反応自体(私・自我)も同じく当の記憶(私・自我)にはコントロールできない。

コントロールしている者は既に条件付けられコントロールされているのだ。



それなのに、

その記憶は神の肉体を私の肉体であり、私の思考であり、私が主体であり、私が

生きており、私が出来事を起こして、私が行為しており、私がコントロール

しており、私がそれを知覚認識し、私が対処していると信じて疑わない。





出来事、肉体、思考、運命、出会い、行為、とはプログラムに従って起こっている事で

あり、心臓や脳や、血液や血液の循環と同じく神・大生命が起こしており、神が生きて

演じておられるのである。

そして

それが、起こった後に「神聖なる根本無明である私という観念の記憶」

が知覚認識が始まり「私が行為し思考している」と思っている。

しかし

この記憶(自己自我)も同じく神が大生命が興しておられコントロールしておられる。

のではないか?




従って


起こっている行為も、

そしてそれに対する知覚や認識、判断や評価をする私も共に神によって

神が記憶(自他の分離・マーヤ)を使って起こしておられる、

両方ともに神が演じて生きておられるのである。


この現象界は神の演技なのである。神の芸術作品なのである。



この現象界は神の芸術作品、そして自己自我も同じく神の演技、神の芸術作品なのである。


私、あなた、日本人、外国人全ての人類、あらゆる異なる信仰を持つ人間も、善人も

悪人も、敵も味方も動物も植物も鉱物も、そして万物は大生命・神が生きて演じておられる。



私もあなたも、全ての万物、思考と行為と出来事

そしてそれに対する記憶の反応(私・自己自我)も

神の芸術作品

神の演技である。


神以外には何ものをも存在していない。と


それゆえ記憶は全ての万物(あらゆる自己・自我)を敬い、礼拝し、愛するのであると。

ここに於いて以下の言霊を唱えることの重要性が浮かび上がってくる。


この記憶がたましいの鏡から脱落しない限りは光が輝かないのである。


御免なさい、許して下さい・・と至高なる実在に対して「記憶という地球で一つのマインド」が唱える。

愛しているよ・・・と、その記憶マインドが至高なる実在に対して「私は見られるものです」と唱える。

         至高なる実在とは愛であるので、「愛であるあなたに全てを捧げ、あなたである全ての
  
         万物を愛します」と宣明する。「見るものは見られるものである」と宣言する。

         (愛とは分離が無い状態即ち「見るものは見られるものである」の状態、わたしはあなた

          の実際の知覚体験状態、「恐怖の観察者は恐怖である」と「見るものは見られるも

          のである」という主体と客体の分離の無い状態を体験している状態が愛である。)

ありがとうございます・・・「記憶という人類で一つのマインド」は、自らが自らの源泉(空)に帰還することの
          
               喜びと感謝を至高なる実在に捧げる。