願いが叶うこと
あらゆる願い、あらゆることの成功や願望の成就を祈願しているのは誰か?
しかしそれが満願成就され、叶うことは自己からの自由や解放をもたらさない
ことだろう。
願っているのは誰なのか?
願望が成就されることは思考しているのが記憶であるように、願いなろうと
努力している私からの解放をもたらず強化してしまうことだろう。
祈りが叶えられることは「願っている自己自我」からの解放をもたらす(齎す)
ことはないだろう。
それは逆にその祈り・願望が成就されることは、ますます自己自我を強化
させてしまうのではないか?
家庭間の問題、経済の問題、身体の問題、心の問題、疑問質問、あらゆる苦しみや
恐怖の解消などということ・・・それによって自己の解消に結びつかない場合
それらの疑問、問題が解消されて、満足が与えられて満足してしまうことは
自己自我に対してより深い迷妄をもたらすことであって、
自分自己からの解放へと導かないであろう。
願いが叶うことは、その願いが叶うことで
満足している自己に深く束縛され、自己からの
解放をもたらすことはないと思われる。
常に記憶や思考は「なること」「すること」「至ること」を願っていて
あるがままにいることが出来ない。
何もしない、何も願わない、何処にも行かない、なろうとしない、あるがままでいる
・・ことが思考には出来ない。
苦しみや悩みや悲しみや葛藤からの自由とは、苦しみや悲しみや
悩みや葛藤を理解することであり、自己の願いが叶えられて自己が
満足することではない。
無明からの解放の切なる願いさえ無明が起こしている
「なる」「する」「願う」「至る」とは記憶が起こしているのではないか。
それらの満足という結果を求めているものは自己自我であり
それらが達成され与えられることで、ますます自我は強まることだろう。
私はハイヤーセルフであり、自己実現した真我であり、私は神だと自我が
信じてしまうことだろう。
この自我とは何もしない、何もならない、何処にも到達しないこと、
あるがままであることに耐えられないのではないか。
あるがままを理解することはないのではないか?
願いや祈りを叶え、体験を与えることはますます無明の中に沈殿させる
ことになりやしないか。
願い、祈願するものは願い、祈りが叶い、その体験することによって
ますます無明・自己に深く囚われてしまうのである。
願いから、祈りから、祈願する記憶・思考からの解放がないところに
その願っている自己からの解放、その体験している私からの解放が
ない限りは自由はないのであろう。
願い、祈りを叶え、満足を体験させることは束縛することだ。
その逆に願いや、祈りや、満足や、成就や、円満や、成功や、富を
求めているもの、その思考であり記憶である私への直視が起きたとき
それが解放への第一歩なのではないだろうか。
私達は注意深く歩を進めなければならない。
満足という幸福を与え、自我を肥大させるものには注意すべきである。
自我に餌を与えるものには気をつけなければならない。
既に与えられていること、愛されていること、生かされていることに感謝しようではないか。
生きておられる主(万物一切)に感謝し、愛すべきなのではないか
その達成への手段や方法を教える者へは注意しなければならない。
こちら側からの接近は存在していない事に留意すべきであると。
クリシュナムルティー以下のように言っている
あなたが「私は誰々を愛している」と言うとき、それは愛ですか?
それならばその愛のなかには、観察者とあなたが愛する者、すなわち観察
される対象とのあいだの分離はないでしょう。
そうでないとすれば、その愛― それは思考の産物です。
したがってそこに愛はないのです。