行為と思考は記憶から/無為と気づきはたましいから
行為: 行為とは記憶が起こしている。記憶とは私という観念であること
だろうか?
内部と外部の出来事はカルマのDNAに従って起こっている。
世界や社会や家庭や身の回りに起こっている出来事とはカル
マによる遺伝で決定されている。
肉体に起きる才能や障害、外部と内部で起こっている事は決定
されている。
(内外で起こる出来事は私という観念の記憶である自我によっ
ては変更することが出来ない)
・・・この起こっている出来事とは潜在意識の記憶からの反応のこと
ではなくて神聖なる源泉からのカルマによって起こっている内外の
出来事のことであろうか。
そして
その内部と外部の起こっている出来事に対して条件反応している
のが記憶であり
記憶からの思い(考え、執着、欲、恨みや怒りや疑いなど)とその行
為が更なるカルマを生み出していることだろうか。
この記憶が引き起こす行為とは目的・理由(この目的と原因と理由
を持つのが記憶である)を持っており
記憶は「自分が行為を自由意志で決定している」と知覚・認識して
いるけれども・・。
・・・しかしながら記憶の条件反応である思考や感情や行為は根源の
プログラムによって生じており、記憶は記憶によってはコントロールで
きない。(「分かっちゃいるけど止められない」のだと?)
神聖なる実在によってのみ記憶は消失することが出来ると言われる。
それが起こる鍵は記憶に対しての懺悔と許しと愛を注ぐこと、そして
感謝であることだろう。
この私達の情況を端的に言うと既に決定されている起こっている内
外の出来事に対して意識的、自覚的に行為をしているのは潜在意識
の記憶からの条件反応即ち自我であり、それは更なるカルマをうみ、
次の人生へと記憶の行為の結果は受け継がれていく。
たましいからの私・顕在意識はその記憶からの行為に「同一化」して
おり眠っているからであろう。だからこそ記憶と共に記憶に愛を注ぎ
感謝する事が最重要となる。記憶を、そしてその自己を愛することが
何よりはじめに為されなければならない。
無為; 私には経験が無いので語ることが出来ないので推測するに・・・
たましいから新たに生じた目である「顕在意識+潜在意識」が本来
の鏡のように透明になっている度合いに応じて、超意識が顕在意識
と肉体を通じて行為をなすことを無為と言うのであろう。
しかしこの超意識からの行為は行為している記憶には、その行為と
は自我の自由意志や願望や目的や努力ではないので記憶にはそ
の行為を知覚認識できない。・・起こっていることを自覚するのみで
ある。
その超意識からの行為は常に完全完璧に、その行為は秩序をもた
らすことだろう。それは沈黙と平和をもたらすことだろう。
それが無為と呼ばれている。
そのたましいからの無為はカルマによる行為ではなく、記憶からの
行為でもなく、自分(記憶)を超越している超意識からこの現象界へ
の恩寵として肉体を通じて為されていくのであろうか。
思考: 思考とは記憶の知覚であり、記憶による認識であり、その記憶とは
神聖なるシステムが生み出している「私という観念」・無知であるこ
とだろう。
思考とは記憶からの条件反応であり、脳と一体化している顕在意識
は、それを自分が思考していると捉えてしまっていると。
思考は現在意識として計画し、決定し、行為を為し、思索し、質問し、
悩み、楽しみ、常に快楽を求め、支配しようとしており、「自他は分離し
私は世界を認識しているのであり、世界は私ではない」「内部は外部
ではない」、「見るものは見られるものではない」、「万物と私は分離し」、
「私は肉体であり」、「神と自己とは異なる」と思い込んでいると。
私という観念が記憶であり、その記憶からの反応が思考であると。
この記憶が内部と外部で自己を知覚し、認識しているのだが、決し
てこの思考を超えている、たましいからの「気づき」「注意」「理解」
を知覚認識できない。またこの観察者であり見る者である記憶は
記憶の根源を知覚し、認識することがない。
「私」があなたであり、「私」が世界であり、「私」が万物であり、「私」
が私であるとき、その理解は概念を伴っている想念や言語という記
憶を超越する段階に辿り着いたと言えようか。
気づき:たましいからの顕在意識と潜在意識から記憶がクリーニングされた
状態即ち本来の鏡が恩寵により浄められ、太陽を映し出すことが出
来る純粋透明な空の状態が実現したとき、そこにたましいからの超
意識が光輝き顕現するという。
しかしこの「気づき」とは、たましいからの「思考ではない超意識」であ
り、現在の人類の記憶の反応である現在意識には知覚し認識するこ
とは出来ない。人類の意識は殆どが記憶によって占有されているから。
諸体の脳が条件付けから解放されていない限りは、分離を知覚して
いる主体(記憶)そのものが死を通じて変革される必要が有るという。
記憶である人格の死がなければたましいからの意識は顕現しないと。
思考と言う記憶の領域ではそのたましいからの超意識を伝える事も
知覚することも、探求することも出来ないので、私達は自身の内なる
超意識と至高なる実在に理解と愛を懇願する以外に方法がない。
理解である愛が発現するためには愛を与えなければならない。
賢者たちはその超意識の事を「気づき」「超意識」「全体的知覚」「注
意」「インスピレーション」などと表現しているが、しかしながら、私達
現在の人類の意識の現在の段階とは全く記憶に占有されており、
「気づき」や理解という超意識の事を推測することも、思考すること
もできない。記憶である思考には「気づき」には接近できない。
熟考したり、思索を重ねても、その超意識を知覚認識できない。
霊感や直感や私達の思考に依る言語や想念とはこの超意識からの
気づきではなくて、潜在意識層からの記憶の語りかけに過ぎない
のだと。「全体的知覚」は「する」のではなく「内から興る」のであると。
愛により完全に自我が消滅し、わたしはあなたであり、万物が私であ
り、私が世界で在るという真実の理解が顕現していない限りは、人類
が思う「意識」とは、思考に過ぎず、それは理解ではなく自我の反映、
記憶からの応答に過ぎないことだろうか。