顕在意識は思考していない
私達が現在意識している意識とは「記憶の意識」なのであって、魂を構成している
超意識と顕在意識そして記憶が殆ど占有している潜在意識という意識の事ではない
と言われている。そして潜在意識にある記憶も地球人類で一つの単体であるという。
顕在意識は思考はしていないという・・顕在意識とは空(透明)であるからであると
顕在意識は思ったり、考えたり、質問したり、話したり、質問したり、計画したり、
恐れたり、欲したり、満足したり、夢を見たりはしないという。
思ったり、考えたり、質問したり、夢を見ていたり、欲望していたりしているのは
顕在意識を覆っている記憶の現在意識なのだと。
だから顕在意識は透明なる鏡なので思考していないし、夢を見ていないし、行為していないと。
では思考し、行為している私は誰なのであろうか?
それは顕在意識が間違って自己同一化してしまっているところの「記憶の私」
潜在意識にある「記憶の現在意識」(私という観念)であるという。
しかし極くまれにだが人類の中で、自我の終焉を経た場合に、根源からの正しい行為
と正しい思考が発露していることがあるという。
だから通常の人類においては
この思考し、夢見、計画し、行為しているのは顕在意識の私ではなくて
顕在意識が一体化してしまっている潜在意識にある「記憶という現在意識」なのであると。
行為しているのは顕在意識の私ではなくて顕在意識が誤って自己同一化してしまった潜
在意識にある「記憶」なのであると。
この人生で、思考し、悩み、恐れ、祈り、頑張って生きているのはこの記憶なのであると。
顕在意識を覆っているこの記憶が人生で考え、悩み、努力して、行為しているのだと。
私は自分で私の肉体だと思っている、その記憶の主なる特徴とは
○他人とは自分を映し出している鏡であり、私が非難する相手とは自分の姿であるのに他人を非難している。
○肉体は神の宮であり、肉体は根源によって与えられ生かされているのに記憶は肉体は自分のものであり
頭脳は自分の脳だと錯覚している。また行為は根源がこの記憶の自由意志を使って演じているのに、
記憶は自分の自由意志で行為していると思っている。
○この自分即ち思考(記憶)とは地球で単一の集合思考体なのに、この人類で単一の記憶は「自分は他人と
は別の個人で あり、この個人は地球上のあらゆる他人の意識とは異なっている」と思っている。
○内部と世界を見ている観察者とは記憶であり、その記憶が見ている内部の対象や世界とは自分自身である
記憶であるのに(「見るものは見られるものである」のに)自分と世界とは異なっていると思っている。
記憶は自分自身を内部と外部に投影し、自分を対象として知覚・認識していることに記憶は気が付かない。
○時間や空間とは記憶が生み出している記憶の認識形式=錯覚なのに、記憶は万人共有で時間空間とは
記憶が生み出している錯覚であることに気が付かない。
○思考や感情を知覚し、観察している私とは記憶であり、その記憶によって観察されている思考や感情とは
記憶そのものであり、観察者という私は架空であって存在していないことに記憶は気が付かない。
○記憶とは「私が観察者であり私とは異なっている対象であるものを観察していると思い込んでいる。
決して「観察者は観察されるもの」であることを理解することがない。
それ故に
私、この顕在意識(鏡)を覆い尽くしている現在意識である記憶は
自らの浄化と、自らが根源の空に戻ることを祈願し
「払い給え、浄め給い、幸はえ給え」と根源に祈願し
「御免なさい、許して下さい、愛しています、有り難うございます」と源泉に祈るのであると。