現在意識と顕在意識





「私達のこの現在意識(記憶の反応である思考)とは顕在意識(たましいと繋がっている

意識)なのではない」といわれております。


悲しいかな、私である顕在意識は依然として眠ったままであり、「潜在意識にある

記憶」と一体化していて、顕在意識の私は未だ目覚めていないのだと教えられています。




では今現在の、この意識している現在意識の私とは誰なのでありましょうか?


毎日毎日、日常生活を送っていて、家族と団欒し、会社に行き、コロナに怯え、貯金

残高を気にし、映画やテレビやPCを見ている私、政治や社会を論じ、神を論じ、精

神世界を放浪し、仮面を被って人生を送っているこの私とは顕在意識なのではなくて

記憶の反応なのでありましょう。



この私は、顕在意識を覆い尽くしている記憶であり、この記憶の反応とは私ではないと。

この現在意識とは、実は条件付けられている脳を通じた想念の蓄積・記憶の反応であり、

私を騙っている記憶の反応なのであると。



ホ・オポノポノではそれ故にこの記憶に対して許し許され、この記憶を愛し、感謝しなさい

と言います。



行為し、考え、求め、質問し、知覚し、肉体に入り、肉体から離れるのは「顕在意識である

私」なのではなくて「私を騙る記憶」なのだと。記憶が肉体に入り、そして肉体から離れた

と思っているのですと。(勿論、誕生時に最初の吸気と同時にたましいからの意識も繋が

るといわれているのですが)



人類のこの思考、この思い、この行為、この願望、この欲望、この努力、この探求・・

幾多の人生を生き抜いている私、私自身だと実感している私、私だと実感されているこ

の現在意識の私とは、愛おしく、悲しくも、哀れながら潜在意識にある記憶なのだと。

故にこの現在意識の私とは断じて顕在意識ではない。決して顕在意識ではないと。



この現在意識とは表面意識を構成する人類共通の潜在意識にある記憶の反応なの

であると。欲望や思いや行為や考えとは潜在意識の記憶から沸き起こってきていると。



その私達の潜在意識にある記憶とは、私達が肉体と繋がり「条件付けられている脳」が

受信した想念を自分だと錯覚し同一化してしまった結果なのでありましょうか。


そして今なお私達表面意識は自分の潜在意識にある記憶と全く一体化してしまっています。


それ故に人類である表面意識の私は、私達が生み出してしまった記憶である「現在意識の私」

に責任があるのだと。

(一は多であり、全てが全ての中にあると云われております、原子の中に宇宙が有るのだと)


ヒューレン博士は言います、この記憶の人格を愛しなさい・・と。人格の私を愛することが人

格の私がクリーンにされることに繋がっていくのでありましょうから。

(ホ・オポノポノではこれをクリーニングと言っています)




この記憶である現在意識を愛しなさいとヒューレン博士は言います。


では愛すると言うことはどういうことでしょうか?

愛が与えられるためには、まずはじめに万物全てを愛さなければなりませんと教えられております。

売買できたり、所有できたり出来るのは愛ではありません。愛することで愛が与えられるのでしょう。

「わたしはあなた、あなたはわたし」と、万物に対して「愛しているよ」と言葉で唱えることでありましょう。



愛とは「主体と対象はひとつである」ことを実体験しているときに顕現していると云います。

それは「見るものは見られるものである」を理解していると言うことでありましょう。

「恐怖を見ているものは恐怖である」と云うことを頭ではなくて実体験し、真に理解していること

が愛の中にいることでありましょう。



自他が分離していない「たましいの目」が表面意識に顕れたのです

表面意識を覆い包んでいた記憶の私が脱落したのでありましょう。


それ故に

「観察者は観察されるものである」という事実の理解の中に愛が生じているのだと云われます。

「虚偽を虚偽と観ることの中に真理がある」と教えられております。



非常にごちゃごちゃしているので下記の図をご覧下さい。

下記の図はホ・オポノポノのヒューレン博士の教えを参考にして作りました


http://kuboakoru.web.fc2.com/isikitosikou.htm