記憶である思考の性質




記憶の反応である思考の性質について思いつくままに書いてみました。


思考が分割している・・見るものと見られるものに、主体と客体に。

思考が分割している・・世界と私に。

思考が分割している・・観察者と観察されているものに。

思考が分割している・・自と他に、私とあなたに。

              思考である私が知覚認識しているあなたとは、あなたではなくて

              あなたという鏡に映っている「私が持っている思考自体」である。

              その思考とは鏡である私のものでもなく、鏡であるあなたのものでもない

              思考だ。

              相手の鏡に映し出されているのは私の潜在意識にある記憶=思考

              であるというのである。

              ・・・それを自分の鏡を覆う思考が「悪いのは相手だ」と錯覚している。

              その思考が知覚しているあなたとは「鏡である私やあなた」ではなくて

              その鏡に映っている私の潜在意識にある「記憶自身の姿」なのであると。

              非難している私も、非難されているあなたも「私の鏡」を覆っている思考であり

              私が非難しているあなたとは「私の鏡の心」を覆っている思考、私の潜在意識

              の中にある記憶の反応なのであると。
            


思考は分割している・・・思考は自分自身を分割し、自分が高次の観察者であると錯覚している。

               思考は高次思考のことはなにも知らないのに、自分は何も知らないと言う

               ことを知らない。

               思考はネットや本から情報を得て学習して、高次の教えを理解していると錯覚し、

               恐怖を見ている自分自身は恐怖であるのに、自分は恐怖を見ている観察者

               であり恐怖ではないと錯覚しているのであると。

               自我を見ているのは自我であって「鏡の心」ではない。それは記憶の反応で

               ある思考だ。

               思考は自己自身を低次と高次に分割し、この「愛しているよ」と唱えているのは
 
               一体どちらの私なのだろうか?高次の私かそれとも低次の私か?などと思

               考している。思考には高次の思考や高次の私に関しては何も分からないと

               言うことを思考は知らない。
          
               だから、それ故に思考に従わずにただただ「愛している」と唱えることが肝要

               なのである。

               思考に従わずに内と外に起こるすべての出来事を受け入れて、「どの私がして

               いるのか?どの私が唱えているのかという思考」に惑わされずに・・・、思考と

               感情に対して・・ただただ感謝することである。ただただ愛することである。

               何故ならば思考には高次機能に対しての識別がないので、どの私かなどと言う

               ことは分からないのであるから

               ・・・ただただ一心に思考に対して「愛しているよ」と唱え感謝することが大切だ。


思考は分割している・・・思考は必ず自分自身を見る私と見られる私に分割するように、自分自身を敵と

              味方に分割する。思考とは敵であり、味方なのであり、それは実際は両方とも自

              分自身なのであることを思考は知らないのである。思考は常に自分自身を敵と

              味方、善と悪に分割し、判断し、分析し、非難している・・・その善悪に分離分割す

              ることこそが記憶の反応であり、高次の心から見れば心の病なのであると言わ

              れている。



思考は傲慢である・・思考は自分が「本当の自分」を知ることができると思っている。

             従って、だから自分が真理を理解出来るのだと錯覚していて、質問したり、答え

             を得ようとしたり、探求したりしている。

             思考には理解することは出来ないのだという事を思考は理解していないので、

             傲慢にも自分は真理を知ることができるし、自分が理解出来ないことは何もなく

             自分が理解出来ないことは真理ではないと思っている・・・が思考には真理や

             事実は理解はできないのである。

             思考には「自分自身を知ることは出来ない」ということを思考は知らない。

             自分自身は思考がクリーニングされたときに自ずと輝いていることだろう。

             なぜならば思考は無知そのものの記憶の反応であり、常に自他を分離している、

             無知、無明であるから・・・。 



思考は質問する・・・思考は絶えず質問し答えを得ようとする、思考の私とは理解することなどでき

            ないのに・・・・それに気がつかないでいる・・・そして思考は絶えず質問するのだ。

            質問や疑問や何故?は思考から起こっている事を思考は気が付かないで

            回答を求めて質問する・・・。思考には理解はないというのに・・・。

            思考は同じく自分が理解出来ることのすべてが思考の限界の範囲内であり

            それは即ち無知・無明であり思考が分かることは虚偽そのものであることを知らない。

            思考とは自分自身が無知であることを知らないので、自分には回答を理解出来

            ると思っている。思考による質問自体のすべてが思考の無知からであり質問する

            ことそのものが記憶の反応であることを理解していない。疑問・質問そしてその回

            答とは思考という無知から来ていることを無知である思考は知らない。



思考には目がない・・・思考には目がないので肉眼で見た脳の知覚がすべてであり正しいと思っている。

             記憶である思考は脳とも深く結びついており、肉体の知覚を自分の知覚だと思い込んでいる。

             現状での感覚や知覚は記憶・思考の知覚であり、記憶が見て、感じて、知覚しているのである。

             思考には目がないので、現象世界とは本当は何であるのかを知ることはないし

             限定された条件付けられた知覚以外は知覚することはできないことを思考は理解していない。

             思考が見ている世界とは実は思考自身であり、暴力と殺戮と生存競争の阿鼻叫

             喚の世界であり、戦争が絶えることはない。・・・それが思考であるからである。

             したがって思考には常にあるがままを受け入れ感謝する事をしないで

             あるがままを非難し、「神がいるなら何故こんなことが起こるんだよ!」

             といって自分が作り出し自分が見ている自分の姿を非難している・・・思考

             が見ている世界とは思考自身が作って映し出している世界であるのに・・それに

             思考は気がつかないのである。神は愛であるというのに責任を神に転嫁している。


思考は真我になろうとする・・・

            思考はあるがままの自分を受け入れることがないので、常に何かに至ろう、

            獲得しよう、自己実現しようと努力している。真我になろうとしている。

            自己実現しようとし、何かに成ろう、としてその方法を模索し、探求している・・・。

            問題を作り出しているのは思考であるのに、思考は自分が問題を生み出し

            問題そのものであること知らずに問題を作り出し、そしてその問題の答えを

            見つけ出し問題が解決されたと錯覚する・・・そもそも問題を作っているのは

            思考であり、思考による問題解決とは、思考の罠であり、そもそも問題など

            存在していないことを思考は知らないので、問題解決のために努力を重ねて

            いる。      

            そして、その思考が得た回答、答えとは思考が理解している思考自体即ち無

            知であり、思考が思っている解決とは解決そのものが虚偽であることを知らな

            い。そもそも問題などはじめから全く存在していないことを思考は知らないのだと。  




思考は思考自身を見ることが、思考という虚偽の自分からの解放に至る方法であることを知らない。

ヒューレン博士は言う

「目の前の相手」とは自分を映し出している鏡なのに、その相手の鏡に映る自分を非難しているのは記憶だと。

記憶が自らを知覚対象にして、記憶のことを自分自身だと認識し、

記憶は地球人類が同じなのに自他を分離し、「記憶である自分」の内面の心を『自分だ」と知覚し、

認識し、考え、そして行為していると

夢を抱き、計画し、目的を持って努力しているのはたましいの私ではなくて、それは記憶なのだと。

記憶が願望を抱き、希望し、そして絶望しているのだと・・・

私は絶望したことはないのだが、絶望とは希望の最終形態であろうか・・思考が辿り着く結論ではないか。

そしてその「絶望という希望」を捨てることが諦観であり、すべてを諦めることの美しさと喜びが輝き出す

そこにお導きがあるのだろう。

そこは感謝と生かされている有り難さが溢れている

と思われる。


絶望とは希望であり、両者共に自分が生きているという錯覚=記憶が起こしており

全てを諦め、全てを受け容れる、何にもならず、どこにも行かないこの諦観が

感謝と受容とそして万物への愛が起こるために必要とされるのではないか・・・。、



・・・と生意気にも思いつくままに意見を述べさせて頂きました。