プログラム




私達は誰もが成功することを目的として、生きている。

トップになろう、一番になろうと蓄財し、通帳残高額アップを人生の目標だと

思って努力している。


世界中の全ての人々(私を含め)はそのような価値判断や思いをもって

生きている(しかし、結局は死期を迎えて全てを失ってしまうというのに)・・・


それは実は全人類で同じの条件付けられている脳のプログラムであり、私達は

プログラムに従って万人が等しくそのように競争し、闘い、愛のない思考や

行為や欲望や希望や絶望や判断や評価をしており、生活し生きている・・・

ということ。

しかしそのプログラムのことに気が付いているひとはごく僅かであろうか。

私達はプログラムが見て、プログラムが考えて、プログラムが知覚し、プロ

グラムが行為しているのに、自分が考え、自分が欲し、自分が感じ、自分が

苦しんで、自分が行為していると固く思っている。



しかし、大事なことはそのプログラムに翻弄され一体化していても私達自身

は決してそのプログラムではないということであろう。




私達はプログラムと完全に一体化しているので「自分はプログラムでは

ない」という現実に気が付くことがない。



私達はプログラムと一体化していているのでプログラムの記憶が生み

出している思考に何ら疑問を抱くことなく、年を重ね、悲しいかなあっと

いう間に人生の終末を迎えていく。




私達はプログラムと一体状態になっているので、私達の日常生活での行

動や思考や探求や結論や欲望はプログラム(DNA)によって起こって為

されていても、自分はプログラムによって作動しているロボットではないと

言う自覚をもつことが出来る人は私を含めて皆無といってよいほど、少

ない。



従って本来の私はそのシステムが起こしている感覚や感情や欲望や目的や

判断や知覚ではなくそれらから自由である「意識」であるというのに。



思考や感情と同一化して「私とはこの思考や感情なのだ」と、若しくは自分

とは、脳が生み出した化学物質の結果だと思い込んで、私やあなたとは

自由意志のないロボットだと、自分はシステムによって動いているロボット

だと思ってしまっている。(久保栄治はこの段階である)




一方精神世界を学んでいる人は、観照者としての「目」がないのに、「行為は

起こっているのだから、私は行為していないのだ。自由意志は起こってい

るのだから、全ては起こるように起きているのだから自分はそれら意志や

行為とは関係していないのだ」「私は自我ではなくて思考を超えている真我

であり、私は在る」などと・・と記憶である思考が自己欺瞞に陥って話している。

それをそう言っているのが、そのシステムが起こしている記憶であり自我であり

記憶の詐術・錯覚であり、思考が嘯いてしまっているのだということに気が

付かない。

・・・それに気が付かないで

好き勝手な行為を繰り返しカルマを上書きし、低次なエレメンタルを生み出し

続けている。


「全ては起こっているのだ」とそれを話している当のご本人が起こっている思

考であり、起こっている記憶であり、起こっている行為そのものであり、即ち

ロボットであるというのに。



「ロボットが行っている行為や思考には私は責任がない」と思い込んでいる

自分。そう思っている自分こそがシステムが起こしている思考であると言う

のに・・・。




しかしその反対にロボットの行為や思考に私達は責任があるのである。


そのエレメンタル・自我・想念形態・記憶は私達が生み出したのであるから、

私達から離れる事がないのである。



私達はその記憶・エレメンタルというロボットに責任がある。


何故ならば私達はロボットが行うように行ってしまい、またロボットが思うように

思ってしまっていることによって私達はカルマを生み出し、その行為と思考の

結果責任を身に引き受けるのであるからである。



私達がシステム・記憶と一体化することによって行為し、思考した結果「想念形

態」「エレメンタル」「自我」即ち「記憶」を生み出したのである。


この私達が生み出した「記憶」「自我」は私達の責任である。


そうして私達は私達が生み出した運命と結果を身に引き受け、そのカルマに

よってDNAというプログラムが書き込まれている身体に再び宿ることとなる。

そして目覚めることなく人生を生き、老い、病に倒れ、肉体から離れていく。



私達はこの人生に於いて、私達は記憶ではないところの自由意志をもつ心

を、私達の表面意識の心を使うことが殆どないのだ・・・・。



私達はプログラムによる記憶からの思考や行為を、自分の持っている自由

意志とはき違えているのだ。私達には心があり自由意志を与えられている

のである。(但しここで言う私達とは記憶ではない時空を超えた第三の目を

持つ私達のことである)




私達はそのプログラム(DNA)を変えることも可能だというのに、それに気

が付かないのは何故か?


それは「私達は心を使用することが出来る」、『私達は自由意志を持ってい

る「たましいと繋がっている表面意識」である』との自覚がないためであると

教えられている。



私達は未発達で未熟なのでプログラムに従って起こっている行為や想念や

欲望や考えや判断と一体化しており、そのプログラムの行為や欲望を、完

全に自分の行為であり、自分の欲望であり、自分の考えであり、プログラム

が自分自身だと思い込んでいるので、その起こっている事に対して

心を用いて「有り難う、愛しているよ」と言えることに気が付かない。

私達はその起こっている私、即ち思考や感情や記憶や行為ではないのだと。




私達は心を使ってこのプログラムが起こしている行為や思考に対して正しい

アプローチから正しく思考や行為をすることも出来るのだが、プログラムに

よって起こされている思考や行為と一体化して、全く占領されているので、

プログラムに完全にコントロールされている奴隷状態であり、自分は現在は

記憶に束縛されていて自由ではないという自覚すらない。

そういう「表面意識の段階(レベル)」にいるのである。




しかし、私達は与えられている自由意志を用いて、そのプログラムが起こし

ている意志や思考や想念や欲望や行為という起こっている内部や外部の

出来事に対して「愛している」「有り難うございます」と愛と感謝を捧げること

が出来るのである。




それ故、私達の表面意識が一体化してしまっている「潜在意識にある記憶

・プログラム(自己自我)」に対して愛を捧げることが、プログラムからの解放

への第一歩なのではないだろうか。



そのプログラムに対して「ありがとうございます、愛しているよ、と言っている

のはプログラムなのではないか?」という思考こそプログラムが起こしている

思考である。プログラムに対抗したり、プログラムを判断したり非難したり、

プログラムと戦い争うことこそがプログラムのシステムそのものであり、プロ

グラムの反応なのではないだろうか。



畢竟、プログラムとは神聖なるマーヤなのではないか。

光が光と認識されるために闇が必要なのではないか。



殺す者も殺される者も神であり、敵も味方も神であり、自我、この記憶である

私とは神の演技なのではないだろうか、神がすべての人類として苦しみ

悲しみ、怒り、憎み、恐れ、悩み、考え、愛して生きておられるのではないか・・・。