私とは「私という観念」??!!
「私は誰か」は有名なラマナ・マハリシの問いかけであり、いにしえの昔からの聖賢による人類への最重要なる
質問、メッセージでありました。
では私とは誰でしょうか?
私が思考するに、それはこの思考している私こそ実は起こっている思考の記憶であり、思考が私の実体なのだと思われます。
ではその思考はどこから来たのかと言えばそれは、当然ながら源泉からでありましょう。
その私という観念は私達の本体である本当の私・鏡(霊魂)を一番奥で包んでいる無知だと言うことでしょう。
その私という観念とは聖書で言うエデンの園にある善悪の樹の林檎だということでしょう。
■ 肉体は勿論私のものではありません、至高の大生命のものです、大生命が使い生きておられます。
■ 脳は勿論私のものではありません、至高の大生命のものです、大生命が使用し生きておられます。
■ 脳が生み出している欲望や衝動は他の生き物と同じく勿論私のものではありません、至高の大生命が使い大叡智のものです。
■ 脳が司っている視覚や聴覚などの五感は他の生き物と同じく勿論私のものではありません、至高の大生命のものです。
それらは大生命の表れです。
■ 脳が生み出しているシステムである記憶や知覚や認知機能は他の生き物と同じく勿論私のものではありません、至高の大生
命のものです、それらは大生命が司り機能させています。
■ 肉体を支え諸体と結合させているエーテル複体(エネルギー体・プラーナマヤコーシャ)は勿論私のものではありません。
至高の大生命のものです。
■ 現在のパーソナリティーの一部であるマノマーヤコーシャ(思考体・感情体、未形成のサイコノエティック体)は勿論私のも
のではありません、至高の大生命のものです。
■ 輪廻転生を繰り返している、眠ったままの現在のパーソナリティーであり未形成のサイコノエティック体(ヴィジュニャーナ
マヤ・コーシャ)を持っている私も私のものではありません。至高の大生命のものです。
そしてこの現在のパーソナリティーが私という観念に覆われて同一化しているので、肉体を私のものだと錯覚し、起こっ
ている出来事を自分が行為し、自分が思考し、自分が願い、自分が欲望していると信じ込んでしまい、起こっている出
来事や欲望や行為や思考や感情と一体化した結果、起こっている行為や思考や出来事に巻き込まれ反応してしまった
ことによって、カルマを創り、カルマを身に纏っているのではないでしょうか。
■ 私とはこの私という観念であることでしょう。肉体をはじめとする諸身体を私のものだと実感している私とは「私という観念」
根本無明(人類の潜在無意識)なのではないでしょうか。そして眠ったままの現在のパーソナリティーは目覚めることなく
輪廻転生を繰り返しているのではないでしょうか?
■ 未知なる私(観照者)という霊魂とこの輪廻している現在のパーソナリティーを繋いでいるコーザル体(永遠の原子・アーナ
ンダマーヤコーシャ)も勿論のこと私のものではありません。大叡智のものです。
■ この私の奥にあるという未知である私即ち観照者、霊魂、永遠のパーソナリティーは勿論私のものではありません、それは
未知なる本当の私であり、全体そのものだと教えられております。
未熟で眠りこけていて未形成のサイコノエティック体である現在のパーソナリティーにとっては霊魂とは最内奥に実在している
神であることでしょう。
この霊魂であり鏡である永遠のパーソナリティーを覆い尽くしているのが私という観念であり私という錯覚であるのでしょう。
鏡という霊魂を覆い尽くし私と世界が分離しているかのように見せているのがこの根本無明である私すなわち「私という観念」なの
ではないでしょうか
私を詐称するこの私という観念が未知なる本当の私である神聖なる鏡を覆い尽くしており、
あたかも世界や他者や万物と分離している私がいるかのように思い込んでおります。
それにより私のものではない大叡智のものである現在のパーソナリティー(ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ)が
肉体や諸体を自分のものだと錯覚し、この私という観念を自分だと実感しているということなのでありましょうか。