個は全体である
・・・最近、夜中にふと頭をかすめたこと・・・
善人は悪人があるから成り立っているのだろう、悪人がないとき善人もない
敵は味方があるから敵なのであり、敵がいないとき味方もいない
私とはあなたがいるから私なのであり、あなたという対象がないときわたしもいない
自己は他者がおっての自己なのであり、他者というマインドがないとき私もいないことだろう
最高は最低が支えている、金持ちは貧乏があるから金持ちだといえる
頂点は谷底が支えている、トップはビリが支えている、一位というのは最下位が支えている
個があるのは全体があるからであり、全体がないとき個もない、個とは人体と同じく全体の中の個だからだ
自己や他己そしてその欲望や思考や想念や観念や行為は鏡に映っているマインド・私・自己(心)の姿であり
鏡が支えている映像だ、その映像を映し出す鏡がないとき欲望や思考や行為や私はないのだろう
光は闇があるから光であり、闇がないとき光もないことだろう
善は悪があるからであり、悪も善があるからだ、悪は善が支え、善が悪を支えている
私はあなたがあるから故に私であることが出来るのであり、あなたがいないときには私はいない
自己を観察する心という観察者がいないとき、観察される対象も存在していない
心というものが観察者と観察される対象の分離を引き起こし、そのように分離を実感しているのだろうか?
自我自己は他己があるから自我自己であり他己がないとき私・自我はない、私がいないときには他者はいない
悪人や善人は私達である合わせ鏡に映っている私(心・マインド)の姿であり鏡が磨かれ透明なとき
鏡に映る自己や他己はいないのだろう、大空を映している鏡だけがあるのだろう
私たち自己とは、他己と全く同じものである同じ心が、私自己だと思っているに過ぎない
その私自己だと思っている心が私達である鏡に映っているのだろう
私はあなたとは異なっているという考え・・・
それは丁度、人体の細胞が私は人体ではなくて一つの細胞なのだと主張しているようなものだろう
個とは全体を構成している全体なのであり、個と全体とはひとつで分離していないのに
自分は個であり全体ではないと錯覚している
人体の一つ一つの細胞は人体があるから細胞として生きている、人体がなかったら細胞もない
私は他ではないという
その錯覚が個であり個人であり私であるといっている心に他ならないのではないのか
地球で一つの心=私・自分が「私はあなたではなくて且つ全体ではない」と錯覚しているのではないか