私は人格ではない




フト思ったりすること・・


私、「魂と繋がる表面意識の私」は、「記憶である人格の私」が恐れているように恐れてしまって

いるが恐れているのは人格の私、記憶の私であって魂と繋がっているわたしなのではないと・・・。


その人格(記憶)の私とは、「魂と繋がっている私」を覆い包んでいる日常で意識しされている私の事。

しかしながら、魂と繋がっている「私・表面意識の私」は目覚めていないので、今のところは意識し

意識されているのは「魂と繋がっている私」ではなくて、「魂と繋がっている私」を覆い包んでいる

「思考の記憶である人格の私」であると。



本当の私とは、いかに眠っていて目が覚めていないとは云えども霊魂と繋がっている「現在のパ

ーソナリティー・表面意識」なのであって「記憶である人格」(エレメンタル)ではないのであろう。


『記憶の人格の私にとっては未知である「たましいの私」』は「記憶である人格の私」が思うように思

ってしまっているのだが、思っているのは「記憶・人格の私」であって私・現在のパーソナリティーで

はないと・・・というのも魂と繋がる私とは、「肉体を自分だと思い」「他人より上に立ちたい」と思って

いる思考の記憶なのではなくて、大空のような透明な意識であり、記憶ではなく「注意」「理解」であ

るからだと・・。


起こっている数々の出来事や、襲いかかる「不安や恐怖」に対して私は私の中の「記憶の反応である

人格」が恐れているように恐れてしまっているが、恐れているのは「記憶・人格の私」なのであって

魂と繋がっている「私・現在のパーソナリティー」ではないと。



従って、このこれを書いている私とは思考の記憶であり、その思考とは根本無知・無明からであり

それは「神聖なるマーヤ」であって、決して意識や気づきではないことであるだろう。


恐れているのは誰なのか?高次の教えによれば畢竟それは恐怖が恐怖を知覚しているのだ

といわれています。恐怖を知覚しているのは決して魂と繋がっている「鏡である私」なのではないと・・。


私は私の一部である「記憶という人格」が考えているように考えてしまっているが、考えているのは記憶

であって現在のパーソナリティー、即ち魂と繋がっている私なのではないと信じています。というの

もこの「記憶であり思考の私」には「魂と繋がっている私」を知覚することも認識することもないからです



同じように魂からの私は、その私が一体化している「記憶である人格」が行うように行ってしまっている

けれども、行為しているのは記憶・人格の私であって魂と繋がっている現在のパーソナリティーの私で

はないと教えられています。


ですからこの記憶であり思考の私にとっては、全く不可能なこと、正反対のことをする以外に「魂と

繋がる私」は意識化されません。ここで記憶の私にとっての「自己否定」即ちこの記憶の私と正反対のこ

とを記憶の私が行うことが求められています・・「自分が自分を許し、そして愛し、感謝すること」・・それこそ

が記憶の私が記憶の私を愛することであり、そしてその記憶の自己を受容し、記憶の自分が生かされて

いることに感謝することでありましょう。・・・それが自己脱落への一つの道なのかも知れません。


・・・肉体を生かしておられる・・頭脳を働かせておられる・・このことに畏敬の念とともに感謝しております。

「思考しているこの私」とは脳の条件付けの結果である思考・記憶のことであり、この思考の記憶が個人

また人格として、内部と外部に起こっている事に対して反応し、恐れ、怒り、苛立ち、暴力的に行為して

いるのではありませんか。この私は記憶エレメンタルなのです。


今これを書いているのはこの記憶なのでありましょう。

それ故に、この記憶の私は記憶の私を愛し、許し、自分自身が生かされていることに深く感謝していき

たいです。



非常にややこしいのですが、この恐れ、欲し、思考し、考え、行為しているのは魂と繋がっている

表面意識・サイコノエティック体である現在のパーソナリティーではないということでしょう。

表面意識であるサイコノエティック体という現在のパーソナリティーは無意識的に記憶と全く同一化して

自分が行為し、自分が意志し、自分が考えていると思ってしまっていると云うことでしょうか?


いまのこの私とは記憶なのでありますが、この記憶の私が記憶の私に感謝し、許し、自身に愛を注ぐべ

きではないでしょうか。その様にして自己脱落への道へと導かれていくように思われます。


私・記憶の私は肉体に入り「未知なる私」と共に生かされていることに感謝していたいです。

私・記憶の私は肉体に入り「未知なる私」と共に「自らを愛すること」を実行していたいです。

私・記憶の私は肉体に入り「未知なる私」と共に、自分自身の数々の「愛のなさ」をお詫びし、許しを請うていたいです。


有り難い、有り難い、愛している、ただただ自らに愛を注いでいる、そして懺悔しています。

そして感謝している・・・この記憶の私がこのように愛され生かして下さっていることに・・。


その様な私に、私はなりたいです。