理想・理念
新しい年を迎え、今朝、思ったこと・・・・
世界の通常の常識では、理想や理念、計画そして祈願、自由意志、祈りや努力、大志などは、
人間としては非常に価値あることのように思われているのですが、よくよくその努力や理念とか
理想や目的の中身を考察し、その理想とは一体誰が心に描いているのかを見てみると、今までの
常識とは全く異なっている側面が露呈されてくると思います・・信仰や宗教、理念や理想や目的
それらは一見すると崇高なものに見えてしまいますが、実際は表面意識を覆っているエゴが自分
の欲望を祈りや願望と称してそのエゴの思いを成就しようとしていることであって
それらはエゴの意志、エゴの行為、エゴの自由意志であることが判明して来るのでありましょう。
たましいの表面意識の私はそれを自分の意志と勘違いしてしまっています。
それらは魂の表面意識を覆っているエゴがエゴの限られた知覚・認識の中で、エゴが自分の人生
をコントロールしようとしているエゴの欲望、エゴ自身の姿、エゴの行為であることでありましょう。
そしてエゴはエゴ自身の姿を世界に投影して、対象とは自分自身の姿なのに、それを非難し、それから
逃避しようとしています。
内部と外部を見ている主体、対象を見ている私とはこの魂の表面意識を覆っている記憶の反応エゴ
であると言うことでありましょう。
記憶であるエゴが見ている内界と外界とは本当は記憶自身の自分の姿であるということでしょうか。
記憶が見ているのは記憶であることでしょう。エゴが見ている世界はエゴ自身の内部であることでしょうか。
エゴが自分の姿を内と外に投影して世界を見、自分の姿を知覚しているということでありましょう。
(本来のあるがままの姿にダブらせて記憶が記憶を見ている)
エゴが自分の姿を内部と外部に見ており、自分を非難し、自分である苦しみから逃れようとしていると。
エゴが自分自身を他者の鏡(魂)に投影し、他者(自分)を恐れ、憎み、非難し、悩み、苦しみ、逃れようと
しているのだとおもいます。
理想・目的を抱き、祈願し、利用され利用しようとし、自己関心に囚われ、プライドが傷つき、苦しみ落ち込
み、憎悪と暴力であるのは魂の表面意識の私ではなくて、記憶の反応(エゴ)なのではないでしょうか?
そしてその責任はその記憶に覆われてしまっている「魂の表面意識の私」が負うことになります。
何故ならば魂の表面意識の私は記憶が行うように行い、記憶が見るように見て、記憶が感じるように感じ
記憶が話すように話してしまったからであります。
潜在意識から起こっている私達の行為とこの知覚と認識とはエゴの働きでありそれは記憶の反応なの
ですと言われております。
悲しいかなシェイクスピアが言うように魂の表面意識はその記憶と完全に一体化してしまっているのですと
「本来の私達である表面意識」は残念ながら今のところは目は殆ど閉じられたままなのです。
生老病死を恐れ、死を恐れ、苦しんでいるのは記憶であり、その反応であるエゴだと言うことでありましょう。
この苦界から逃れようとしているものこそが記憶なのですと。
このエゴとは「眠りこけている魂からの表面意識と潜在意識の中」にあり、それが即ち
”「たましいと繋がっている表面意識」の潜在意識”の中にある、記憶の事であります。と
この知覚し、知覚され、認識し、認識されている「記憶の反応=自分を肉体だと思っている私」とは
即ちエゴの私とは、”「たましいと繋がっている表面意識」のことではなくて
潜在意識に棲み着いている記憶のことであります。
この記憶とはたましいの表面意識が「無明」に取り囲まれた結果、創りだした記憶のことだと言われております。
それは「頭脳というPC」にあって、事前にインスト-ルされている「基本ソフト」によって生み出された記憶と同じ
でありましょう。
その生み出された記憶(エゴ)の責任は、肉体に入ってそのPC(頭脳)と一体化してしまってPCを操作しているPCの
使用者即ち「たましいと繋がる表面意識」にあることでしょう。
ですから
この私であるエゴとは「目が閉じられ眠ってしまっているたましいと繋がる表面意識の私」が記憶と
一体化した故に生み出したのであるから、それは即ち表面意識の責任であるということであります。
ヒューレン博士が
「人生の中で体験する内面の葛藤や戦争や虐殺に対してあなたは100%の責任があります(自分の記憶を
内部と外部に投影してそれを知覚しているからです)」
「あなたの人生に姿を見せる他人の行動、他人の心、他人のエゴとはあなたが全幅の責任を負っています」
・・・と、博士は私達の状態である「表面意識が完全に記憶と一体化している状態」から抜け出した
「表面意識が記憶から解放されている状態」であり、
そこから多くの賢者達と同じように私達に対して話しているのである
と言うことでありましょう。
それに対して
私達記憶と完全に一体化している意識状態レベルとは多くの賢者達の意識状態は全く異なっているのです。
ですから「人類の戦争は私の責任ではない、私とは関係ない。地球の裏側の虐殺は私とは無関係だ」と記憶は
思っているのですが、
記憶とは個人のものではなくて全人類が共通で同一のものですと。ですから記憶とは全人類の記憶なのです。
記憶とは「分離していないたましいの表面意識の私」が生み出した全人類で同一のものだからです。と
ではこの苦界、輪廻の三界は何故あるのでしょうか?
何故、私達はこの記憶に取り囲まれ、自分は眠ったままなのでしょうか?
それは、この未熟な私が思うに、この幻影の三界世界を愛することにより恩寵がくだり「記憶が空に戻る」奇跡が
姿を顕し、この現象界に光がもたらされる為なのでありましょう。
それは愛が自ら自身を再確認するためなのでありましょうか
ではどうしたら私達は「記憶=自分自身」から解放されるのでありましょうか?
その際、最大の鍵となるのが
無心で「愛している」と唱えることだとホ・オポノポノは言います。
「御免なさい」「許して下さい」「愛している」「ありがとうございます」を唱えることである
と
その言葉を唱えることが「神聖なる実在」からの奇跡と恩寵をもたらすと言っております。
「南無阿弥陀仏」や「御心の天になるが如くに地にもあらしめ給え」と同じようにであります
では誰が誰に対して唱えるのでしょうか?などと記憶の思考を働かせ、エゴに質問をさせる
ことなく、ただただ無心に唱えなさい。と
記憶と一体化していてもそれは「魂の表面意識の私」が行っているからであります。
あらゆる天地万物の一切に愛と感謝を捧げなさい。・・・記憶と記憶の源泉に対して愛と感謝を捧げなさいと。