意志


意志とは、エゴの限られている視界に基づき人生をコントロールしようとすることです。

と、ホ・オポノポノでは言っています。

ですから

意志に愛を与え、感謝して

意志から離れなさいと。






意志とは誰の意志でしょうか?・・・意志、それは記憶というエゴの意志ですと。

意識には意志がなく、自己がなく、思考がなく、観照しているのでありましょうから。



だからこそその意志で私達は愛し、許し、感謝し「御心のなるが如くにならしめたまえ」と祈るのです


見ているのは誰でしょうか?

考え思っているのは誰でしょうか?

内と外を観察しているのは誰でしょうか?(誰が自他を分離して見ているのでしょうか?)

起こっている出来事に反応しているのは誰でしょうか?

聴いているのは誰でしょうか?

感じているのは誰でしょうか?

話しているのは誰でしょうか?

意志しているのは誰でしょうか?

悩み苦しみ、評価し、非難し、喜怒哀楽しているのは誰でしょうか?

書いているのは誰でしょうか?

読んでいるのは誰でしょうか?

行為しているのは誰でしょうか?

常に自己関心で一杯で、自分のことばかり気にしているエゴとは誰でしょうか?

自尊心やプライドやエゴで一杯なのは誰でしょうか?

肉体の死後、無明の中で生き続けているのは誰でしょうか?

質問しているのは誰でしょうか?

私だと思っているのは誰でしょうか?

知覚しているは誰でしょうか?

私が自分の人生を生きていると思っているのは誰でしょうか?

私とあなた、敵と味方、殺す者と殺される者を区別しているのは誰でしょうか?




記憶が見ており

記憶が思考しており

記憶が感じており

記憶が話しており

記憶が聴いており

記憶が知覚しており

記憶が朝に目が覚め、夜眠るのであり

記憶が求めており

記憶が悲しみ、苦悩し、非難し、嫉妬し、高慢であり、欲情しており、怒り、疑っており

記憶が非難しており

記憶がエゴであり

記憶が自尊心、プライド、自己関心、競争心であり

記憶が意志しているのであり

記憶が行為しており

記憶が知覚しており

記憶が起こっている出来事に反応しているのであり

記憶が肉体の死後無明の中を、(記憶の中を)生き続けており

記憶が私の人生を私が生きていると思っており

記憶が自分を私だと思っているのですと。

記憶が私とあなた、見ているものと見られているものを分離し分けているのです。



ですからそれら記憶から離れなさい・・・とホ・オポノポノでは言います。

離れるためには


それら記憶を許し、許され、記憶に愛を与え、感謝しなさいと・・・ホ・オポノポノでは言います。


意識は記憶に占領され、記憶と同一化していますと

ですから

意識は記憶と同一化しているので記憶がするように、意識も為してしまい、自らが創りだした結果

の責任を負い輪廻のバドルの中を目が覚めないまま生き続けるのですと



意識を覆い尽くしている記憶=思考(エゴ)を対象として観察しているのはその記憶=思考であり


意識を覆い尽くしている記憶=思考(エゴ)を自分自身として愛し、感謝しているのが意識ですと。



ですから意識から見た場合には記憶は対象ではなくて意識自身なのです。意識(空)には分離がないからです。と

ですから

ホ・オポノポノでは「記憶とはあなた(意識)に責任があります」と言うのでありましょう


何故ならば、記憶(全人類共通の)は、あなたの潜在意識の中にあり、あなた(意識)が生み出したものだからですと。


内と外を見ている記憶は、あなたが生み出したのであり、あなたに100%の責任がありますと


記憶を愛しなさいと


そしてその時、たましいからの恩寵がやってきて意識を混濁せしめていた記憶が浄められクリーンになるのですと。


それゆえに


ここでのキーになるのは記憶が自らを愛し、自らに感謝し、自らの全てを許すことなのです。