愛すれば愛が与えられる
「愛せよ、さらば愛が与えられん」、・・とはキリストの言葉であります。
キリストは私達には愛が何であるのかを知覚したり認識することは出来なくても、「愛を
与えなさい」、「愛しようとしなさい」「愛しなさい!」と言われているのでありましょう。
では「愛しなさい」とは何を愛するのでありましょうか?
それはまず自分自身を愛しなさい、と言われております。
悩み苦しみ恐れ怯え不安で、嫉妬深く愛のないこの私を愛しなさいと言われます。
では自分自身とは何でしょうか?
自分とは記憶の反応であり、常に思考しており、愛とは何か?愛する対象は何か?愛しているのは誰か?
などを頭を使って考えている愛を知らない無知・・即ち記憶の反応でありましょう。
実際には
自分自身とは目の前のあなたであり、目の前の私を苦しめる敵のあなたなのであると云われています。
何故なら私もあなたも潜在意識では繋がっている同じ人類でひとつの記憶だからですと。
地球の裏側で飢えに苦しんでいる兄弟姉妹、欲望と暴力で怒り狂っている私々、恐怖と悲しみの私々・・。
殺す私と殺される私、富める私と極貧で喘いでいる私、天才の私と身障者の私、健康の私tと病苦の私。
これらの私とは記憶であり、記憶の反応であり、自分は他者ではないと、自分は個人であり、全人類では
なくて肉体だと思い込んでいる記憶であります・・・それはこの思考と感情の私であることでありましょう。
ですのでこの記憶を愛しなさいと言われております。この私を愛しなさいと言われております。
この私は「私は世界を観察しているものであり、世界それ自身ではない」私は世界とは異なっている、
私はあなたではないと実感しているこの記憶の私を愛することが、まずはじめに行うべき一番肝要な愛
の対象であるということなのでありましょう。この記憶の私とは潜在意識にある全人類共通で
同一の記憶であるということでありましょう。
愛とは太陽のように対象を以ておらず、通常の世間で言う愛とは対象のある愛のことであり、その愛と
は相手を利用し支配しようとしている自我に過ぎません。即ち記憶に過ぎないのではないでしょうか?
けれども、それらのことを聴くと私達はすぐ記憶・思考が働きます
そして
「私達とは記憶の反応であり、その記憶とは愛ではないので私達には愛することは出来ないよ」
と思ってしまいます・・・
では、そう思っているのは誰でしょうか?誰がそう思うのでありましょうか?
それはこの条件付けられている頭脳で形成されている記憶の反応でありましょう。
記憶である思考が「私には愛が無いから愛することができないよ」と思っているのではありませんか。
「自分やあなたとは記憶の反応なので、私やあなた、そしてこの世界には愛が無い」と思ってい
るのは、その記憶なのでありましょう。
記憶が肉体の目や神経を使って思考し、行為し、記憶が内と外を見ているのですと。
そしてさらにその記憶である思考は「自分が理解出来ないものとはこの世には存在しない」「理性
や知性に知ることが出来ないものなどなにもない」と傲慢の極で考えています。
しかしながら現実はその正反対であり、肉体を含む生きとし生けるものとは生命が生かしているであり、
それは記憶の反応ではありませんし、思考には生命を生み出すことは出来ません。記憶・思考こそが
生命によって生じ、そして生かされているからです。
記憶が自らを観察し、自分自身を見て「私には愛がない」「自分には愛が無いから私やあなたを
愛することが出来ない」「私はあなたではない」と言っているのであります。
けれども、私達にとっては未知である高次の意識から「愛とは愛することによって与えられるのだ」と教
えられているので、私達は愛のことを知らなくても、又愛とはなにかを理解しなくても、愛とは愛する
ことにより顕現するのでありましょう。
私達は未知なる愛に身を捧げるべきだと思うのですが・・・如何でしょうか。
たとえ私達は愛のことは何も知らなくても・・そして私達は実際、何も知らないのですが・・・。
愛を与えることが出来ます。
勿論、私達記憶が知っている愛とは対象を持っている愛であり、それは愛ではなく、取引に過ぎないし
思考には愛を理解出来ないのですから、思考が考えたり、理解する愛とはそれは誤解に過ぎません。
説明できる愛とは愛ではありません。愛は愛することによって与えられ知らされると教えられている
のですから。
思考がそこに図々しく「愛のなんたるかを知らないのに愛するなど自己矛盾も甚だしいよ」と
言ったところで、その言葉は単なる記憶の反応であり、私達は高次の意識の勧告に従って、
素直にただただ思考なく「愛している」と唱えることが正しい事であると信じているのです。
信じるしかこの記憶である私には方法がないからです。
けれども記憶は自分は肉体であり、自分が生きていると思い込んでいるので傲慢にも「高次の意識
など存在していないよ・・それは茶番だよ、宗教の作り話を信じるなんてあんたは知性のかけらもな
いね」などと言うことでありましょう。
ですので「私やあなたには愛がないから愛せない」「無い袖は振れない」と思っているのは記憶であり、
愛をこの世の物質のように売買できたり、譲渡できたり、知覚認識できたり、自分が行ったり、理解し
たり、所有できる「自分のもの」のように、と思っているのですが、それこそ記憶の傲慢なのではありませんか。
記憶である思考や知性や理性は「私には愛が無いので愛することが出来ない」と思っている
のですけれども、真実とは、全くその逆で、愛の中に私やあなたという記憶でさえいるということ
なのではないでしょうか。・・・何故なら、この肉体が生きているという大奇跡がここにあり、宇宙を
あらしめていると同じ大生命がここにおられるからです。
愛があるから記憶という虚偽も現象することができているということなのではないでしょうか。
愛(空・意識)があるからこそ、時間や空間や質料も記憶や思考や感情や物質もこの虚偽という
記憶も現象することが出来ていると言うことなのでありましょう。
愛には、太陽のように、わたしとあなたの区別も、内部と外部の区別も、国籍も、人種もなく、相手もなく
宗教の区別もなく、所有もありません。記憶が起こしている性別も、正邪や、善悪という識別も
ないのでありましょうから、愛することによって愛が与えられているときには、記憶・思考は沈黙し
、愛の中には私とあなたの区別はなく、愛する私もおらず、愛される対象もないことでしょう
しかし「私達の知覚と認識を占領している記憶」にはその愛を知覚し認識することはできない
ことでありましょう。
記憶である私達には愛が与えられ顕現しているその結果だけを認識することが出来ること
でありましょう。
そのとき私達である記憶には愛を知らなくても愛の結果を知ることが出来るでしょう。
その結果とはそれは秩序であり、秩序とは自分自身である記憶・自我が自分の中から衰退
していくことであり、意識が透明になることであり、「心を占めていた記憶」への理解・洞察が始
まることでありましょう。「思考」が空っぽになることであり、記憶の虚偽がハッキリと見えてくる
ことでありましょう。・・・恩寵でありましょう。
愛による恩寵とは「自己という記憶=自我が薄まり失われていくこと」なのでありましょう。
愛による恩寵とは「自己及び他己の区別無く愛すること」が、より多く、可能になっていくことな
のであリましょう。そして「思考なく見ること」が起こることでありましょう。
記憶・思考が薄まり失われていくことにより、思考や知性や理性ではない「意識・理解」が心の中
に出現することなのでありましょう。
この「愛を知らなくても愛すること」事の実践によって、愛に心を尽くし、愛に身を捧げるこの「記憶」
に対して、未知なる生命からの愛が届き、「記憶」の浄化が始まるのかも知れません。
私・自己が消滅していくという恩寵が始まるのかも知れません。
この「愛すること」「ありがとうございます」「愛していると唱えること」のワークによって
自己を失うという(万物が私であるという理解が起こる)という恩寵が始まると言われているので
はありませんか。