生きることが出来るためには






ある有名な覚者は確かこのようなことを言っていた




「生きるためには目覚めなければならない



目覚めるためには死ななければならない



死ぬるためには恩寵がなければならない



恩寵があるためには天地万物一切を愛し感謝せねばならない



天地万物一切を愛し感謝するためにはお詫びし、許しを請わねばならない



お詫びし許されるためには見ている私を見なければならない」



見ている私を見ることがワークの始まりであろう・・





※ここから先は未熟な私の推測・愚見だが


見ているこの私とは誰だろうか、それはヒューレン博士が言うように記憶であることだろう。

記憶が思考し、熟考し、思索し、求道しているのだ。

記憶が自身を肉体だと錯覚し、自分を見る私と見られる私に、敵と味方に、善と悪に、生と死に、

高次と低次に、内部と外部に、彼処と此処に、過去と未来に分割し、虐殺と苦痛のこの幻影の世

界を自ら創りだし、そして自らがこの幻影の中で苦闘し生きている。

思考・感情とは記憶なのである、それ故に

思索や知性や理性では理解に至ることは出来ない。

「自他の区別分離という虚偽」を理解することは

記憶には出来ない。理解はするものではなくて、与えられる恩寵であるからだ。


私とあなたの区別は記憶のしている幻影であり、記憶自身がそのように錯覚しているのだと。



私達・記憶とは表面上は異なってはいても、万人共通、世界で同一の記憶なのであると。

私もあなたも同じ一つの記憶なのである・・・私とあなたの区別とは神聖なるマーヤなのであると。

記憶とは条件付けられている脳を通じて形成される「神聖なるマーヤ」なのではないだろうか?


ヒューレン博士は言う。

記憶が見て、記憶が思考しているのだと。・・・見ている私人格とは記憶なのだ。記憶の姿なのであると。

記憶が内部と外部を分割し、世界が中ではなくて外にあると思っていると。記憶とは無知であるから

自分が世界であるのに自分が世界を見ていると実感しているのであると。そして敵を生み出し、世界を

支配しようとして、宇宙と戦っている・・・世界はあなたであるのに、

私と世界は異なっていて、分離していると見ているのは記憶であろう。


記憶が肉体を自分だと錯覚し、肉体の生死を自分の生死だと錯覚している。たましいの私には生死はない。

記憶が脳が持つ「時間と空間という認識形式」で世界を見ている。時空間を見ているのは記憶なのである。と

たましいには過去現在未来という時間はなく、此処と彼処という空間はなく、無限に拡がっているのだと。

記憶が知覚認識する時間や空間は、記憶がそうであるように神聖なるマーヤなのであろう。

記憶が思い、記憶が考え、記憶が知覚し、記憶が願い、欲し、記憶が見て、記憶が行為しているのだと。

それが個人・人格であり、それがこの私、それが死後、肉体から離れる記憶、即ち「自分を肉体だと思ってい

る私」のこと、死後あの世で「死んだはずなのに何故私は生きているのか不思議に思っている私」のこと。

それがエレメンタル、未形成のサイコノエティック体、未形成のアストラル体(幽体)、メンタル体(霊体)のことであろう。

そしてその諸体の源泉は?記憶の根源は?

それはこの「私は肉体だと思っている記憶」には、理解不能な「空」からの「神聖なるマーヤ」であることだろうか。