意識と思考の段階



意識とは思考ではない、思考をあらしめている基底・ベースで透明なる意識・空間のこと。

思考が現れては消え去る「空」のこと。だと教えられている。

(文字が書かれている紙自体、映画が投影されている真っ白のスクリーン)

思考を「観照している」意識の事。だと教えられている。

思考とは条件付けられている脳から組成された記憶の反応のこと。

PC(脳)のソフトから生み出されたメモリー・記憶のこと。だと教えられている。


それが今現在の私達の意識と言われているもの、即ち記憶の反応であることだろう。


私達、未熟な段階においては内面での思考と意識とは混合し一体化しているのだと思う。

私達の内面では意識と思考はコップの中のジュースのように、また海の水のように、

きっぱりとは分けられないのではないか・・それは海の水は純粋な水と塩分の両方含んで

いるのと同じだからである。


私達の実存の発達段階では意識と思考は混合していて分けることが出来ないのだとおもう

それは純度の問題であり、海の水は水と「混合しているもの」が区別できないのと同じ混合状態にある。



私達の意識は濁っている・・・これが私達の表面意識の状態であることだろう。


潜在意識にある「条件付けられている脳」から組成されている記憶が生み出した思考と、

魂からの意識が混濁してしまっている・・・それが私達の表面意識の状態。


どこからどこまでが思考であり、どれが意識であるのかが自分でも分からず混濁しているので、

それをきっぱりと分けることは出来ない、それなのに自分は意識であって思考ではないと、思考が

観念的に思い込んで「私は思考を観察しているのだ」と自己欺瞞するのが記憶の常道であろうか。


またその反対に、自分とは記憶の反応でしかないのだと見ているのは意識の始まりかも知れない。

正確に言えば記憶と意識が混じっているのが「私達の意識状態」なのであろう。



「私(意識)は私(思考)が見ているように見てしまっている」とシェイクスピアが言っていることを

逆に捉えれば、私達である思考のあり方が意識にとっても非常に重要になってくる。

その思考のあり方が意識のあり方となる。


即ち「意識は思考が見ているように見ている」からこそ、この「私という思考」のあり方が

意識の質を決めてしまっているのではないか。記憶のあり方が重要なのではないか。


根源からの、カルマによる出来事や思考や感情に対しては私達の自由意志はどうする

ことも出来ないことだろう。私達の自由意志とは記憶の条件反応に過ぎないからだ。


・・その内と外の出来事に対して、それに対して即時に潜在意識からの記憶の反応が、起こっている。

通常は私達はその記憶の反応と同一化して記憶が見るように見、記憶が行うように行ってしまう。

しかし、起こっている事柄に対して反応する記憶に対して私達の表面意識は眠ったままだろう。


①内部と外部に起こっている事を全てつべこべ言わずに受容し、

②これに反応している記憶に対して、

③即刻、直ちに「愛している」「ありがとうございます」を以て正しく接することが出来る。


このように記憶に対しての記憶の態度が非常に重要となっている・・・自己と言う記憶を愛することが

記憶にとって急務となってくる。


起こっている出来事に対して思う思考の内容と、思考・記憶が行っている行為が意識にとっての

カルマに繋がるからであろうか。


なぜなら私達のこの意識だと思っている意識とは、実際には記憶の反応であり、それは意識ではな

くて思考であるから、この今現在の思考のあり方が逆に意識のあり方を決定してしまう。



思考が見るように意識も見ているので、この思考や感情や行為のあり方が

そのまま「魂と繋がっている私=眠ったままの現在の表面意識」のあり方となってしまうのである

そして、それはカルマを形成していくのであろう。


条件付けられている脳を媒体として形成された記憶=思考と感情のあり方が、そのまま魂から

の私の責任となってしまうのである。



だから記憶の私が思うこと、行うことは意識の私にとって非常に重要である。


記憶である思考が思うこと、行うことは、そのまま意識の私が行うことであり意識の私の責任となることだろう。


記憶の思考と行為はそのまま「魂からの私・表面意識」の責任となるのである。


と私は思っている。



記憶とは、たましいと繋がっている私が創りだしたのであるから、記憶と記憶が生み出した

ものの責任は魂に繋がっている、この私の責任であるからである。