葛藤を見ているのは誰?
誰しも、自分の中にある「葛藤(記憶の反応)」を見て、自分自身の姿にびっくりするようなことが数多く
あるのではないだろうか。
ある時、ある情況で、あることが突然に起こったときに、思いもよらない自分の反応や、自分の姿に
遭遇して、吃驚したことも数多くあるのではないだろうか。
・・では、そういうときに、通常、私達はどういう行動をするのだろうか・・
その自分の心の中で起こっている葛藤という「思考や感情や行為」に暖かく注意を向けることもないままに
蓋をしたり、その起こっている「思考や感情や行為」に反応して振り回されてしまうことも多いことだろう。、
その葛藤と全く同一化して、嫉妬したり、計画したり、憎んだり、考えたり、恐れたり、悩んだり、逃避した
りすることも多いことだろう。
通常は、その起こっている「思考や感情」に目を向けたとしても、その起こっている「思考や感情」
に巻き込まれてしまって同一化してしまうか、葛藤から逃避するか、非難するのがおちであろう。
または、自己観察と称して、「自分はその葛藤(恐怖・自己関心・自我)を観察している」・・・と・・
葛藤(思考)の自己欺瞞に陥ってしまうのではないか。
葛藤に苦しんでいるわたし、わたしであるあなた、わたしという全人類・・・。
では、その葛藤を見ているわたしとは一体、誰なのであろうか?
生まれてから死ぬまでの間に、殆どの人は「葛藤を見ているのは誰か?」などということは
全く思いもしないことなのではないだろうか。
では心の中の「『葛藤』を見ているのは誰」なのであろうか?
それは葛藤(記憶)なのではないか。
葛藤という記憶を見ているのはその葛藤という記憶(エレメンタル)なのではないか。
自我を見ているのは自我であり、自身の欲望を見ているのはその欲望なのではないか?
恐怖を見ているのは恐怖なのではないか?
葛藤を見ているのは記憶(エレメンタル)であり、またその記憶によって見
られている葛藤とは、見ている記憶自身の姿である・・・と。教えられている・・。
それは、記憶が記憶を見ているのだと。
恐れているのは誰なのか・・・恐れているのは、それは記憶なのだと。
考えているのは誰なのか・・・考えているのは、それは記憶なのだと。
見ているのは誰なのか・・・見ているのは、それは記憶なのだと。
質問しているのは誰なのか・・・質問しているのは、それは記憶なのだと。
行為しているのは誰なのか・・・行為しているのは、それは記憶なのだと。
誰が悩み、苦しみ、葛藤しているのか・・葛藤し、悩み苦しんでいるのは、それは記憶だ。と
現在の私達の情況は、私達は記憶占領されており、その記憶に占領されていることに
全く気が付いていない。
そしてその記憶とは何なのだろうか?それは未熟な私が言うのは憚られるけれども・・・
記憶とは無知、無明のことであり、
その無知とは何も分離していないのに全ては分離していると錯覚している虚偽のことであろう。
分離しているものや、ことはなにものもなく、私と全てとは分離していないのに、またその記憶で
ある私自身すら全てとは分離していないであろうに
記憶は自分である私が万物と分離し、分割していると見ている。それが無知即ち思考、記憶であ
る。と自分も含め万物は何も分離しておらず、分離しているものや、ことはこの宇宙に何もないのに、
自分と他者、自分と世界、内部と外部を分離し、「私は対象とは別だ」と思い込んでいるのではないか。
それが記憶。
・・記憶とはその錯覚であり、無知とは真実・事実に対しての無知なのである。と
その記憶(思考)の実感は虚偽であり、虚構であり、無知がもたらした飢餓と戦争、苦しみである。と
宇宙の万物は何も分離しておらず、分離しているものはなにも無く、全てはひとつなのである。と
万物は完全完璧なのである・・・なのに、記憶には真実を見ることが出来ないのであると。
ホ・オポノポノのヒューレン博士はこの様な状態を以下の様に説明しているのではないか。
”私達の内部で起こっている思考とは記憶(エレメンタル・複数)の反応であって、あなたではない”。
”あなたの表面意識に出現しあらわれている、その思考とは、記憶自身の姿であり、思考を見ている
ものこそ記憶自身である。
自他の中に自分自身である思考を見て観察しているのは記憶であり、それはあなたなのではない。”と
”表面意識のあなたとは、思考(記憶)を観察している観察者ではなくて、その思考を見ている観察者
(記憶)を観照している意識である。「記憶を見ているのは記憶であること」を見ているのは記憶ではない”と
”その記憶とは、あなたではなくて、あなたの潜在意識に滞留している「あなたが生み出したもの」だ”と
”記憶を知覚しているのは記憶自身である”と
”だから、その記憶はあなたから離れないのだ”と。
”記憶(心の中に出現しその都度交代する複数のエレメンタル)が見ているものとは記憶自身の
姿であり、記憶を見て反応(思考・感情)を起こしているのは見られている記憶なのだ”。と
記憶が自分自身である記憶を見て、「記憶・自我の姿」に対して反応して「自分を非難して、
逃避しよう」としているのだろう。
心の中の「葛藤・苦悶・恐怖」を見ているものは、その「葛藤・苦悶・恐怖」それ自身であり
それは記憶であり、記憶が記憶を見て、「自分は記憶ではない。記憶を見ている観察者
なのだ」と錯覚しているのだろう。
その観察者とは
魂と繋がっている表面意識の私が見ている「思考なき観照」なのではなくて、魂と繋がっている私を
覆い包んでいる記憶のことであり、その記憶が見ており、記憶が記憶に反応しているのだ・・・と。
そのエレメンタルである記憶が、「私は葛藤・自我を見ている観察者」であり、私とは「見られている
葛藤」とは別の観察者=私だと錯覚しているのだ。・・・と
自我を見ているのは自我であり、その自我の本体それは自我ではなくて記憶であることだろう。
鏡という表面意識ならば自分にも、そして全てのあなたという私にも神聖な鏡を見ていることだろう。
鏡という表面意識であるならば私を礼拝し、あなたを礼拝していることだろう。
ただ残念なことに、肉体に入った私達は脳と一体化して、記憶にコントロールされており、未熟なために
意識が充分に発達しておらず、心を使って正しく思考や行為を行うことが出来ない情況なのであろう。
ヒューレン博士のように表面意識から記憶が脱落している場合の意識レベルは、ハッキリと上記の
ようにそう認識するのであろうが、現在のこの久保栄治の未発達段階の意識とは、実は意識なのでは
なくて、記憶であり思考なのであり、自分の意識と思っているのは意識なのではなくて記憶の反応
でエレメンタルであることだろう。そしてその思考とは恐怖であり、自己関心なのだ。
そして、その記憶の目とは、自分自身を見ることの出来る「思考を含まない観照者」の目ではないので
このこれを書いている久保栄治とは記憶なのであり、記憶には記憶を見ることが出来ないのである。記憶には
記憶自身の姿を見ることは不可能であり、記憶は「私はこの葛藤を観察している観察者」だと錯覚し続け、
無知無明の中で、自己欺瞞をし続けていくことだろう。思考には思考を照見することは出来ないだろう。