知ることができる真理とは真理ではない
・・・僧璨鑑智禅師 の「信心銘」を読んだ私なりの感想を紹介したい。
古今東西の覚者達は以下のように教えておられるのではないか
知ることが出来る真理とは記憶なのであって真理ではない。
伝え、伝えられる事が出来るものは記憶であって真理ではない。
本や言葉や記憶で伝えることが出来る真理とは情報や思考であって、それは真理ではない。
言葉や言語や記憶でもって伝え知ることが出来るのは思考なのであって、それは真理ではない。
「私を詐称し,且つ私を覆っている記憶」が理解出来るものは言語であり、記憶であり、想念
であり、思考であって、それは思考を超えた真理ではない。・・・・と教えられている。
この私とは・・即ち記憶の反応のことだろう・・・鏡を覆い包んでいる「私という観念」のことだろう。
この記憶である私が知っている真理とは真理ではない。それは思考であり、真理の誤解である。と
それら思考や言語や想念が知る真理とは「鏡」に映し出されている記憶である・・と教えられている。
では、その「鏡」とは何のことだろうか?
それは、私達は「たましいと繋がっている鏡」であり、「太陽を映し出すことが出来る鏡」であると
教えられている。
しかしながら、現況では深く深く私達の潜在意識にある記憶に完全に覆われてしまっていて
全く記憶からの自由がない状態に陥っている・・と
と言うことは、私達とは「意識の座」なのであり、即ち「そこでいろんな思考や感情や観念や
行為を写しだしている鏡」なのであり、その鏡に映し出されている思考や行為などではないと
言うことであろう。
私達とは「意識の座」であって、そこに写し出されている思考や行為ではないということなのだろう。
私達とは「中空の竹」「空の器」「太陽を映し出すことが可能な神聖なる鏡」なのだろう。
その「意識の座である鏡」に映し出されている思考(記憶)が解消され、脱落したら、本来その
鏡に映し出されていた無限の大空と光り輝く太陽が再び映し出されるということだろう。と
ホ・オポノポノではその透明で清浄な鏡(表面意識+潜在意識)を覆っているのが記憶
(私という観念・マインド・思考・願望・観念・欲望・行為・判断・善悪・好悪)だと言っている。
私達は表面意識+潜在意識+超意識たましいであり本来は「空」であるといっている。
では、ここにいてこうして日常生活を行い、考え、思い、見て、活動している私、この私とは
一体誰なのだろうか?誰が思考し、行為し、心配し、見て、計画し、判断しているのだろうか?
それは、私達である「たましいと繋がっている鏡」を覆い尽くしている記憶・思考なのではないだろうか?
私達自身は確かに「たましいと繋がっている鏡」であるのだけれども、この意識の座には
記憶だけしか映し出されていないのではないか。
あさ目を覚ましたのは誰か?ベッドから目を覚まし、そして日常の仕事やビジネスに没頭し
考え悩んでいるのは誰なのか?その私とは、私ではない記憶なのではないか?と。
そして、記憶は夜になると、再びベットに入り夢を見て色々と体験するのだと。
その記憶が「私達である鏡」から脱落しない限りは、見ているのは記憶であり、行為しているのは
記憶であり、考えているのは記憶であり、体験しているは記憶であることだろう。それ故
この記憶が自分だと思っている私とは、本当の私セルフアイデンティティーを覆ってい
る記憶(私という観念・思考)なのであると。
記憶が知ることが出来るのは思考だけであり、けっして真理ではないことだろう。
記憶が記憶し知覚できるのは思考だけであり、決して真理ではないことだろう。
記憶が知っていて記憶し伝える事が出来る真理とは、記憶であり思考だけであること
だろう。その記憶とは私という観念(マインド・心)であって、その私という観念には
決して真理を理解することは出来ないことだろう。
書物として保管され、伝えることができる真理であっても、それを受けとるのは思考の
記憶であり、記憶は必ず歪曲し、誤解することだろう。その受けとった真理の言葉を
必ず曲解してしまい、決して理解することはないだろう。。
では一体この私は誰か?誰が私だとして生きているのだろうか?
誰が思考し、思い、悩み、行為し、自分の肉体で、自分が生きている、自分は真理を
知ることが出来、伝えることが出来るのだと思っているのだろうか?
肉体や脳や意識やすべては神のもので神が生きているのに、私もあなたも神のもので
神が生きているのに、自と他を分割し、記憶の目でしか見れないのは誰か?
すなわち誰が「私が生きているのだ」と私を詐称しているのだろうか?
・・・それは私達「太陽を映し出すことが出来る鏡」を覆っている記憶なのではないか?
私達を覆っている思考という記憶が知ることが出来るのは思考や記憶だけであって
決して思考や記憶を超越している真理なのではない。・・・と言うことだろう。
思考である記憶には「思考や記憶」を生み出している叡智の源泉には接近できない。
伝え、伝えられる事が出来る真理とは真理ではない。真理は真理であり記憶や情報
ではないからだ、伝達可能なもの・・それは記憶であり、思考であり、それは死んだ
過去であるもの即ち記憶であるということだろう。
言葉や知識で伝えることが出来る真理とは思考であり記憶であってそれは真理ではない。と
その記憶が理解していると思っている真理とは記憶であり思考であってそれは思考を超えて
いる真理ではない。と
記憶が知ることが出来るのは真理ではなく、それは真理の記憶=知識・言葉でしかない。
記憶が知ることが出来る真理とは真理の情報であり記憶であり、言語であり、それは記憶で
ある「私という観念」が受けとった瞬間に死せる記憶となり、その真理は決して真理ではなくなる。
・・・と教えられておられるのだろうと私は思っている。